フォンタネージーイタリアの光・心の風景

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アントニオ・フォンタネージ《朝》
アントニオ・フォンタネージ《ブジェイ高原》
アントニオ・フォンタネージ《雲》

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フォンタネージ

みどころ Highlights みどころ Highlights

19世紀イタリアの画家アントニオ・フォンタネージ(1818-1882)は、1876年、58歳で工部美術学校の画学教師として日本に招聘され、その門下から浅井忠や小山正太郎ら初期の洋画家たちを輩出したことで知られています。スイスやフランス、英国などヨーロッパ各地に滞在し、バルビゾン派やターナーらから影響を受けつつ、詩情豊かな独自の風景画を生み出しました。生涯にわたり風景に取り組んだフォンタネージは、1869年、トリノの美術アカデミーの風景画教授に任命されると、晩年に至るまでこの地で制作しました。本展は、トリノ市立近現代美術館およびトリノ博物館財団の協力のもと、画業の初期から晩年に至るまでのフォンタネージの作品群を概観します。また、日本の弟子たちの作品や、同時代・次世代のイタリア人作家の作品における彼の影響と遺産にも光を当て、フォンタネージの芸術の全貌を約200点により明らかにします。

  1. 1.テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《シャ・ノワール巡業公演》 1
    2.フェリックス・ヴァロットン《大騒ぎ、あるいはカフェの情景》 2

    fontanesi ハイライト1

    1850–1860年

    「絵画」としての風景

    故郷レッジョ・エミリアで美術を学び、第一次イタリア独立戦争に参加したフォンタネージは、スイスのジュネーヴに拠点を移し「絵になる」美的な構図を探求して風景画家の道を歩み始めます。

  2. 1.テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《シャ・ノワール巡業公演》 3
    2.フェリックス・ヴァロットン《大騒ぎ、あるいはカフェの情景》 4

    fontanesi ハイライト1

    1855–1875年

    心をうつす風景

    1855年、パリ万博を訪れバルビゾン派の作品に接したフォンタネージは、それをひとつの契機として、自然に忠実であるだけでなく繊細で抒情的な絵画を追求するようになります。

  3. 1.テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《シャ・ノワール巡業公演》 5
    2.フェリックス・ヴァロットン《大騒ぎ、あるいはカフェの情景》 6
    2.フェリックス・ヴァロットン《大騒ぎ、あるいはカフェの情景》 7

    fontanesi ハイライト1

    1854–1880年

    都市の風景

    スイス、英国滞在中に都市情景に着目したフォンタネージは、フィレンツェ滞在の後、アカデミー招聘を機にトリノへ移住し、都市と市井の人々への関心を強めていきました。

  4. 1.テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《シャ・ノワール巡業公演》 8

    fontanesi ハイライト1

    1860–1875年

    日々の仕事と自然

    バルビゾン派らの作品に触れたフォンタネージは、1860年頃から日常生活や社会に根差した主題の探求をはじめ、農民や家畜、人間と自然の関係に重きを置いた作品を手がけました。

  5. 1.テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《シャ・ノワール巡業公演》 9

    fontanesi ハイライト1

    1867–1880年

    一瞬の光を描いて

    フォンタネージは光の変化を感情の起伏と結びつけました。大作《四月》や沼の連作において、気象と光の移ろい、そしてその効果に着目し、不安定かつ神秘的な自然を丹念に絵画化しました。

  6. 1.テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《シャ・ノワール巡業公演》 10
    2.フェリックス・ヴァロットン《大騒ぎ、あるいはカフェの情景》 11

    fontanesi ハイライト1

    1876–1878年

    日本での制作と教育

    1876年から2年間、フォンタネージは工部美術学校の画学教師として熱心な指導を行い、浅井忠をはじめ弟子たちはその後の洋画の基礎を築きます。フォンタネージ自身もまた日本滞在から刺激を受けました。

    1.テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《シャ・ノワール巡業公演》
  7. 1.テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《シャ・ノワール巡業公演》 12

    fontanesi ハイライト1

    1878–1881年

    晩年の作品

    トリノに戻ったフォンタネージは、1880年トリノ全国美術展に出品した大作《雲》で厳しい批評にさらされつつも、バルビゾン派やターナーの教訓を再解釈し「真実」の風景を追い求めます。

  8. 1.テオフィル・アレクサンドル・スタンラン《シャ・ノワール巡業公演》 13

    fontanesi ハイライト1

    1872–1928年

    フォンタネージの遺産

    風景へのまなざし、人間と自然との関係、空気と光の描写
    フォンタネージの死後、彼の芸術的遺産は次世代のイタリアの芸術家に様々なかたちで受け継がれました。

    1.《ブジェイ高原》1859‒1860年 油彩/画布 2.《朝》1855‒1858年 油彩/厚紙に貼った紙 3.《水車小屋》1858‒1859年 油彩/画布 4.《静寂》1860年頃 油彩/画布 5.《フィレンツェの旧市場》1867年頃 油彩/画布 6.《サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂》1867年頃 油彩/板 7.《ロンドン、ラドゲート・ヒルより望むセント・ポール大聖堂》1866年 クリシェ・ヴェール 8.《物思いにふける羊飼い》1861–1863年 油彩/板 9.《四月》1873年 油彩/画布 10.浅井忠《徳川家の霊廟Ⅰ(寺の入り口Ⅰ)》1878年頃 油彩/紙 11.《日本の寺の入り口》1878‒1880年 キアロスクーロ/画布 12.《雲》1880年 油彩/画布 13.ジュゼッペ・ペリッツァ・ダ・ヴォルペード《モンジーニの牧草地にいる二人の羊飼い(十一月)》1901年 油彩/画布 1~9、11、12 アントニオ・フォンタネージ 1〜10、12〜13 トリノ市立近現代美術館蔵 GAM -Turin Civic Gallery of Modern and Contemporary Art.Courtesy Turin Museums Foundation 11 レッジョ・エミリア市立博物館蔵 Musei Civici Reggio Emilia

アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi) アントニオ・フォンタネージ(Antonio Fontanesi)

松戸市教育委員会所蔵

アントニオ・フォンタネージ 
Antonio fontanesi

1818年、イタリア北部レッジョ・エミリアに生まれ、当地の美術学校に学ぶ。1848年、第1次イタリア独立戦争に志願兵として参加。除隊後スイスに逃避、ジュネーヴを拠点に活動する。第2次イタリア統一戦争後、パリのサロンに出品したほか、ロンドン、フィレンツェにも滞在する。1869年にトリノのアルベルティーナ美術アカデミーの風景画教授に就任。1876年「お雇い外国人」として工部美術学校に絵画教師として招聘され2年間日本に滞在。1879年、アルベルティーナ美術アカデミーに復職し後進を指導する傍ら、トリノを拠点に制作を続けた。1882年、トリノにて没。享年64。

  • 1814

    〈ウィーン会議(‒1815)〉

  • 1818

    モデナ公国レッジョ・エミリアにて7人きょうだいの6番目の子として生まれる。

  • 1832

    レッジョ・エミリアの美術学校に入学する。

  • 1835

    この頃からレッジョ・エミリアのカッフェ・デリ・ズヴィッツェリに出入りし、自由主義・愛国主義者たちと交流する。

  • 1841

    レッジョ・エミリアのオペラ劇場にて舞台装置の仕事を手掛ける。

  • 1848

    トリノにて第1次イタリア独立戦争に志願兵として参戦、ガリバルディの義勇軍に加わる。除隊後スイスのルガノに逃避する。〈諸国民の春〉

  • 1851

    〈第1回ロンドン万博〉

  • 1850

    ジュネーヴを拠点に活動、多額の借金をしてアトリエを構える。この頃からリトグラフの制作を手掛ける。

  • 1855

    パリ万博に赴き、バルビゾン派の画家コンスタン・トロワイヨンと面会。ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、テオドール・ルソー、シャルル=フランソワ・ドービニーらの作品を実見する。

  • 1858

    南仏クレミュー訪問。当地で画家フランソワ=オーギュスト・ラヴィエと出会い親交を結ぶ。

  • 1859

    パリのサロンに入選。第二次イタリア独立戦争に従軍、同年ジュネーヴに戻る。

  • 1861

    パリのサロンに入選。ウジェーヌ・フロマンタン、トロワイヨン、コローからの賛辞を受ける。コロー、ギュスターヴ・クールベの作品を実見。
    フィレンツェ訪問、クリスティアーノ・バンティ、テレマコ・シニョリーニらマッキアイオーリの画家と交流。

    イタリア王国成立

  • 1865

    パリのサロンに入選。ロンドンに向かう。

  • 1866

    年末までロンドンに滞在。ジョン・コンスタブル、J. M. ウィリアム・ターナーの作品を実見。〈普墺戦争〉

    日伊国交樹立

  • 1867

    フィレンツェ滞在。バンティのアトリエで制作を行う。

  • 1868

    ルッカの美術アカデミーの校長兼教授に就任する。

    明治改元

  • 1869

    トリノのアルベルティーナ美術アカデミーの風景画教授に就任する。

  • 1870

    〈普仏戦争(‒1871)〉

    イタリア王国、ローマ占領

  • 1871

    ローマ遷都

  • 1876

    東京の工部美術学校画学教師に就任する。彫刻家ヴィンチェンツォ・ラグーザ、建築家ジョヴァンニ・ヴィンチェンツォ・カペレッティとともにナポリを出港、日本へ向かう。

  • 1878

    体調の悪化、国庫の圧迫による設備投資の鈍化、トリノでの教授職への復職問題などを理由に辞職、のちイタリアに帰国。権利譲渡に際して後任プロスペロ・フェレッティと裁判沙汰になる。

  • 1879

    アルベルティーナ美術アカデミーに復職。

  • 1882

    トリノ市内にて没。享年64。

    工部美術学校閉校