三菱一号館美術館公式ブログ「ルノワールからナビ派への架け橋 拝啓ルノワール先生展」

三菱一号館美術館 公式ブログ 当館のイベントの様子や出来事をお知らせしていきます。

2017年1月6日

ルノワールからナビ派への架け橋 拝啓ルノワール先生展

皆さまこんにちは。
本日は、本展覧会最後に梅原とナビ派との関係についてご紹介します。

「拝啓 ルノワール先生―梅原龍三郎に息づく師の教え」展では、ナビ派の画家の作品も展示されています。それは、梅原がナビ派の画家が教えている画塾に通っていたことが関係しているのですが、そもそもどうして梅原はナビ派の画家が教えている画塾に通うようになったのでしょうか?
梅原龍三郎は1909年2月にルノワールを訪問した後に、同年の6月頃から、パリのルノワールのアトリエやアパルトマンに通うようになりました。ルノワールが描くところを間近に見ることができたばかりでなく、梅原自身が描いた作品をルノワールに見せて、指導を受けることができました。この頃、いくつかの画塾に通ったものの、肌に合わずに中断していた梅原は、どこの画塾に通うべきか、ルノワールに相談をしました。するとルノワールは、アカデミックな指導は有害だが、アカデミー・ランソンは良い先生がいる、という趣旨のことを答えました。

ナビ派の画家ランソンの名前を冠した画塾ですが、ランソン自身はその前年に亡くなっており、アカデミー・ランソンでは、ナビ派の仲間たちが、ランソンの未亡人を助けるために講師をしていたといいます。マイヨールは熱心だった、ドニに声をかけられた(記録上、梅原は最初にドニと会話をしたと思われる日本人画家です)、ボナールは全く姿をみかけなかった等々。ナビ派の画家たちは、今日では美術史上高名ですが、梅原の記録する姿は生き生きと学生を指導し、あるいはさぼって、まるで現在の美術学校の講師のように描写されています。

―三菱一号館美術館では2月から、我が国で初めてとなる本格的なナビ派展が開催されます。次回の展覧会とも関係があるのでしょうか。
拝啓 ルノワール先生展でもナビ派の画家たちの版画が並べられていますが、これは単にナビ派展の予告編ではなく、梅原龍三郎とナビ派の浅からぬ縁故に展示されているものです。拝啓ルノワール先生展の出発点は、梅原とルノワールの交わりですが、出品作はルノワールと梅原龍三郎だけにとどまりません。20点に及ぶルノワールのほかにも、ドガ、ピカソ、ルオー、モネ、セザンヌなどなど、梅原が学び、交友を持ち、そして蒐集した画家たちが広く取り上げられた、展覧会の題名を裏切るかのような、幅広い展覧会です。

梅原の幅広い交わりを全て取り上げていくと、ブログが永遠に続いてしまいますので、最後の最後に、ナビ派の画家たちとの関係のお話で、このブログをしめたいと思います。
チラシ表紙 ブログ用ナビ派ポスター① ボナール格子柄のブラウス mini

―梅原とナビ派の意外な関係!展覧会にお越しの際には、こちらにも注目してみてください。
安井さん、ありがとうございました!

◆「拝啓 ルノワール先生」展の過去のブログです。展覧会について気になった方は併せてご覧ください。
<展覧会のタイトルについて>
<梅原が影響を受けた画家たち>
<梅原と留学生活>
<彫刻家のアトリエ>
<梅原の東京進出>
<生きることへの情熱>
<パリスの審判について>

2016年12月9日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー⑧最終回
<パリスの審判について>

皆さま、こんにちは。
本日は今回のメインビジュアルにもなっている《パリスの審判》について、ご紹介して参ります。今回が最終回です。
※「拝啓 ルノワール先生」を担当している、学芸員の安井裕雄に展覧会についてインタビューを行ったものです。

<パリスの審判について>
梅原は1919年にルノワールの訃報を受けて、弔問のために1年の準備期間を経て、1921年に再び渡仏しています。

そしてその時にルノワールのアトリエで見た作品が、《パリスの審判》no.57(公益財団法人ひろしま美術館)です。パリスの審判の主題を描いた油絵の完成作は2点現存しているのですが、《パリスの審判》no.61はどうやら1908年までに描かれているのですが、ルノワールは描いた後に売却してしまっています。
この作品は、絵の右下にしっかり「Renoir 1908」とサインがあるので、画家の生前に売られたことがわかります。《パリスの審判》no.57の方は、サインが入っておりません。こちらは遺産を整理するときに押印されたと思われる、スタンプの押印があります。年号が入いないうえに、画家の生前に売られていないこともわかっています。この作品は画商が数年預かっていたこともあるのですが、ルノワールが亡くなる前にアトリエに戻っています。

ただ、梅原の「ルノワールの追憶」をみると、ルノワールが亡くなった後に訪れたアトリエには、50号の《パリスの審判》が3点かかっていたと書いてあります。これはどういう事かと言いますと、あくまでも仮説ですが梅原の言うところの《パリスの審判》というのは下絵(デッサン)で大きいものがたくさんあったので、どうもそれが並んでいたのではないかと思われます。《パリスの審判》no.61は1910年頃から1929年頃までの所在は分かっていません。再び所在が分かるのは1927年に撮影されたドイツのタンハウザー画廊のベルリンの店内の写真にこの《パリスの審判》no.61が写っており、その時点では既にドイツにあったとわかります。その後めぐりめぐって、一号館にたどり着きます。とても興味深いですね。
ところで1930年代というのは、この作品が、というわけではないのですが、多くの美術品がナチスによって接収されて売られたり、ひどいものですと焼かれてしまいました。

《パリスの審判》no.61(三菱一号館美術館寄託)は1978年に日本に輸入されました。輸入されたときに本来であれば、画商はすぐに購入者のもとにもっていくのですが、この時は最初に梅原のところに持ち込まれました。すると「しばらくここにおいておきなさい」ということになり、梅原のアトリエにしばらく置かれています。その時に書かれた作品が梅原《パリスの審判》no.62です。梅原が90歳のときに描かれた作品です。
この作品はルノワールの記憶と、直接結びついている作品として大変重要なものです。
チラシ表紙 ブログ用

展示室では額にも注目してください。額の縁以外の部分が赤色に塗りこめてしまっています。なぜこうなったかというと、梅原のアトリエの壁は弁柄色に塗られていました。とても強い色です。弁柄色に塗った理由は、この壁紙に負けるような絵を描いてはいけないという事をとても強く意識していらして、調和をとりつつも力強くあるということを重要なことだと捉えていたようです。絵はこの壁紙にまではみ出してしまうほどに勢いよく描かれています。絵と壁との境界線となる額で調和を保つために、赤を散らしたのでしょう。

ちなみに今回の展覧会では、ある小さな展示室の一角の壁の色を決める際に、弁柄色をイメージしています。梅原さんが死ぬまで手元に置いていた愛玩の小品を集めた空間です。展示室では弁柄色をそのまま使用すると、照明の関係で絵が見づらくなってしまうので、色味は調整してあります。ぜひ展示の際にご注目ください。

―安井さん、展覧会のご説明を有難うございました!

◆「拝啓ルノワール先生 ―梅原龍三郎に息づく師の教え」特設サイトはこちら

2016年11月29日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー⑦
<生きることへの情熱>

<生きることへの情熱>
梅原が関心を抱いた画家は、ルノワールだけかというとまったくそうではないですし、絵画だけにとどまらず、演劇、
食、服飾、書画骨董にも大変関心が強かった。ある意味、視界が狭い凝り固まったオタク的思考ではなくて、とても
バランスのとれた、生きること、生活そのものを楽しむことが出来る天性の才能があったと言えるのではないでしょうか。

―晩年のイメージから豪快なイメージが先行していましたが、いろいろな面があるのですね。
そうなんです。
演劇をはじめとしていろいろな分野に興味を持っていました。これは白洲正子さんが書いているのですが、梅原は老齢になってからも芝居の夢を見る事が多く、ある時はナポレオンの役で、舞台に出たところで目が覚めた、とご自身が話していたそうです。それだけ演劇に対する想いが強かったというエピソードですね。梅原は、演劇についての本もたくさん持ち帰っていたのですが、残念ながら関東大震災で焼けてしまいました。

―ちなみに演劇に対する情熱を発散させる場所はなかったのでしょうか?
それは大変いい質問ですね。僕は、梅原の著作集『天衣無縫』(求龍堂、1984年)に完結している、ルノワールの追憶の文章での筆の強さというのは、演劇的な言葉遣いからきていると思います。日本でもたくさんの演劇を見ていて、当然フランスではフランス語でセリフを理解していました。例えば忠臣蔵をフランス語に翻訳する手伝いなどをするほどにはまりこんでいたりですとか、ムネ・シュリーという役者さんの楽屋に、ヴィクトル・ユゴーの舞台の後に与謝野鉄幹と訪ねて行っています。さらに自分が帰国するときには彼の元へ帰国の挨拶に行って、写真にサインをもらったりもしています。

―それにしても、梅原さんは行動の人なのですね。
そうなんです。めちゃくちゃすごいでしょ。
アトリエに押しかける。
楽屋に押しかける。
会いたい人には、会いに行きます。

―そんな梅原さんでも会いに行けなかったドガについて気になりますね。
ドガについてはかなり強いあこがれがあって、ドガのような線描は描けない、ドガにはなれないから違う道をとったのかもしれません。

今回展示している梅原が国立西洋美術館に寄贈した《背中を拭く女》no.31は、そのような憧れの人の作品をそのまま手に入れたいという欲求から、梅原が所有していたのかもしれません。ただ、この絵は私有にするべき作品ではないなという考えから、最終的に公に寄贈したのではないかと思います。
国立西洋美術館に入れるために買ったのか、それとも所有していて最後に入れることにしたのか、その順番はわかりませんが、ああやって公のコレクションにしたというのは、大きな社会貢献です。すごいというか、なんというか人間的に大きなことをしたと思います。

次回は、いよいよ解説最後、今回のメインビジュアルにもなっている、パリスの審判についてです!
お楽しみに。

2016年11月16日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー⑥
<梅原の東京進出>

皆さま、こんにちは。
本日は、梅原は京都出身であったにも関わらず、なぜ東京でデビューすることになったのかをご説明して参ります。

<梅原の東京進出>
梅原の最初の個展はなぜ東京で行われたのか、という事も興味深い点です。
梅原は1913年に帰国するのですが、彼はなぜか帰国後京都から東京に引っ越してしまいます。親のいる(地盤もあり、画塾に通った)京都ではなくて、東京でデビューしました。留学中に有島生馬とパリで仲良くなって、そのことが梅原の東京進出のきっかけとなりました。
なぜかと言えば有島は、梅原よりも早めに帰国して、1911年3月に雑誌『白樺』でルノワール特集を組んでいます(これはかなり早い段階での特集でした)。さらに、梅原から届く手紙を有島が白樺に掲載していたこともあります。パリのモンマルトルに留学している友人からの手紙として。(初めは無断で掲載していたようですが、)梅原のこと、そして彼の手紙も紹介していた。有島が活動していた白樺派の拠点が東にあったから、東京でデビューすることが出来たのです。
ちなみに梅原という人はとても運のいい人でした。まずは、先に高村との出会いを仲介した人物として名を挙げた、田中喜作との出会いです。フランスに留学する47日間の船旅をともにし、田中の蔵書からルノワールの名前を知り、それをインプットした状態で、7月の20日にパリに到着しています。その田中喜作は先に日本に帰ってしまうのですが、彼は帰国後に京都で美術評論家として新聞などに寄稿するようになります。その中に梅原が出てくるのですが、そうすると地元の人は、梅原というのはあの「悉皆屋(しっかいや)のぼんち」に違いないという事がわかるわけです。皆それぞれ梅原のことを知り、どんな絵を描いているのかと想像したり、期待するわけです。そんな状況ですから梅原がデビューする下地として、プロデュースが自然とできていく訳です。

また東京では、高村光太郎フランスから帰ってきて自分で画廊を開きます。前衛的なゴッホなどの影響を受けた画家、岸田劉生や萬鐵五郎の絵をどんどん展示していきます。その高村の「緑色の太陽」という小論を書くのですが、その中である画家が緑色の太陽を描いても、高村はこれを非難することはない。高村にもそのように見えるかもしれないからである、という趣旨のことを述べています。芸術表現の絶対の自由を求めるという、我らが高橋館長流にいえば「とんがった」ことを言っていますね。
この高村が、ある展覧会に出品された梅原の絵の習作は、その年に文部省が開催した展覧会に出品されたすべての作品を合わせたよりも良い。という意味の事を書いてしまうわけです。すると高村の評論を読んだ人は、梅原、どれだけすごいんだ!となりますよね。
そうすると京都の方では、そのことを新聞に書くわけです。東京の高村が文部省の作品を合わせたものよりも梅原の習作の方が良いと言っている、云々、というような記事を。そうすると京都の人たちの期待はますます高まります。
ところが、1913年に梅原が帰ってきて、あくまでも想像ですが、京都で内々の関係者に見せたところ、内容が前衛的すぎて、古典的な絵画を見慣れていた京都人は、いったいこりゃなんじゃ?!という感じになってしまったのではないでしょうか。あまり評価が高くなかったようです。前評判が良すぎたことの影響もあるかもしれません。

ちなみに梅原も帰国の時には、実は絵画よりも演劇に情熱を傾けていました。当然、絵を学ぶために留学したのでしたから、最初は随分と絵に対して熱心でした。ところが、ルノワール先生に会いに行き、絵を学んだところまでは良かったのですが、留学の後半には演劇・芝居へと興味が移って行ってしまいます。梅原のノートは、もともと絵に関する記述が少なくて困るのですが、途中から演劇だらけになっていて、例えば役者のセリフ、舞台装置、演出に関すること、この時の役は誰だったなど、膨大な量が残されています。本人は、芝居の道に進むつもりだったようです。フランスから、シベリア鉄道で日本に帰ってくる時、頭の中は「芝居、芝居♪」という状態でした。留学させてもらったのだから絵も一応、持って帰る、という程度だったのかもしれませんね。
そんな中、京都に着いてみると、実家の悉皆屋(しっかいや)出入りの職人さんたちが歓迎の提灯行列をしたとか、オープンカーでのパレードがあったと遺族が伝えています。梅原はまだ本格的には作品を発表していません。フランスで学んで帰ってきただけで、このように大歓迎されてしまったので、ここで「自分は絵をやめて演劇をやります。」とはさすがの梅原さんも言い出せなくなったのではないかと。
拝ルノ フォトスポット アップ

なるほど、人とのご縁は不思議なものですね。梅原の演劇に対する想いについても触れられました。
次回は、芸術だけでなく生き方についても迫ります。
どうぞ、お楽しみに!!

2016年11月15日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー⑤
<梅原がルノワールから受けた影響~《読書》を例にして~>

皆さま、こんにちは。
今回は、梅原がルノワールから受けた影響を具体的に説明していきます。

<梅原がルノワールから受けた影響~《読書》を例にして~>
《読書》no.11。まず、本を読むという主題は、ルノワールが1870年代から1880年代、1890年代にかけてたくさん描いています。デュラン・リュエルという有名な画商がいるのですが、彼が所有するプライベートな(ルノワールの)コレクションのあるアパルトマンは、週に一度、一般に公開される日がありました。梅原は何度か予約をして絵を見に行っていることがわかっています。《読書》no.11に描かれている女性の顔だちをみると、ルノワールの描く女性を思わせる部分があるのではないでしょうか。

さらに《読書》no.11は、晩年のルノワールがしばしば用いた、絵の具をうすく溶いて、塗り重ねていく技法が用いられています。例えば、《ピクニック》no.82は、展示の最初に飾られている作品ですが、晩年のルノワールはこういう薄塗の、乾いては塗って、乾いては塗って…を繰り返しています。《読書》no.11をよく見ると、梅原もまた同じ描き方をしていることがわかります。《読書》no.11で見られたこの技法は、晩年の梅原はほとんど用いることはありません。この描き方はルノワールの影響を受けていた時に、集中的にみられるものなんですね。

今回展示している《読書》no.11は、ルノワールの影響を受けたことがわかる作品として大変重要なものであるということが出来ます。ルノワール風の主題で、ルノワール風の技法を使って描かれている作品です。

次回は、京都出身の梅原がなぜ東京でデビューしたのかをご説明いたします。
お楽しみに!

◆過去のブログ
<展覧会のタイトルについて>
<梅原が影響を受けた画家たち>
<梅原と留学生活>
<彫刻家のアトリエ>

2016年11月11日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー④
<彫刻家のアトリエ>

皆さま、こんにちは。
本日は彫刻家のアトリエのことを中心に、梅原のこだわりもご紹介して参ります。
※「拝啓 ルノワール先生」を担当している、学芸員の安井裕雄に展覧会についてインタビューを行ったものです。

<彫刻家のアトリエ>
ちなみに、彫刻家のアトリエは画家のアトリエと違って、壁は薄い灰色が多いのです。もののシルエットがしっかり見えるよう、立体感が解りやすいように、グレーがかっています。グレーの壁によって、特に曇った日は紫外線が目に届きやすくなり、物の色が青みがかって見えます。今回出品されている梅原が高村のアトリエで描いた絵は、その視覚的な印象を強く出して描いたのではないかと僕は思っていて、実際そのように評論されてもいます。

また「自由はあるけれども、お金に困っている」という状況の芸術家たちは青を使いたがるという傾向があるようです。ピカソの場合は友人、カサヘマスが自殺した時、大変衝撃を受けて1905年くらいまでだったかと思いますが、青が主調色でした。「ピカソの青の時代」と呼ばれる時期です。青春の特権でしょうか、梅原もそのような、哀愁を帯びた、強い表現力をもつ作品を描いています。

《少女アニーン》no.4は、モデルが誰か解っています。引っ越した先の下宿の御嬢さんでした。彫刻家のアトリエの空間の光のせいかもしれませんが、この少女の目はブルーアイですよね、よく見ると。そしてこれは不思議なのですが、梅原の描く絵って、しっかりと髪型が描かれています。こちらの《横臥裸婦》no.3でもそうなのですが、カチューシャのようなものまで描かれ、会場に行って実際に見て頂くとよく解ります。

梅原はモデルの服や装いに関心が強いんです。《パリー女》no.5この人は顔が描かれていないですよね?頬杖をついていることはわかりますが。彼の興味の関心は帽子だったと思うのです。この帽子の飾りとか。ブルーがかった白い襟元が見えていて、金のチェーンや、ブローチがついていることもわかります。描かれている深い赤の壁紙なんかにも興味があったと思います。
《自画像》no.8に絵の中に描かれているのは、サスペンダーですが当時の流行のスタイルで、かなりお洒落な装いです。ネクタイも「よろっと」していて、わざと襟を立ててネクタイをつけるスタイルも当時流行っていたものでした。このような部分にも彼自身のこだわりがよく出ています。

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◆前回のブログ<梅原と留学生活>はこちら

2016年11月10日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー③
<梅原と留学生活>

皆さま、こんにちは。
本日は「梅原と留学生活」をご紹介して参ります。
※「拝啓 ルノワール先生」を担当している、学芸員の安井裕雄に展覧会についてインタビューを行ったものです。

<梅原と留学生活>
梅原は、生活面でも強い個性を発揮しました。
梅原は京都の悉皆屋(しっかいや)の生まれです。悉皆屋とはお得意さんの注文を受けて、絹を切り分け、染め、刺繍、
縫いなどの職人さんに渡し、手仕事が終わったのちに、出来上がった着物お得意さんに納める、着物をプロデュースするお仕事です。そのような反物・着物に囲まれた環境で育ったために、梅原は装飾品を含め装い全般に大変興味がありました。梅原は留学時に、パリに到着するとすぐスーツを作っていますし、しばらくしてコートもあつらえたという話です。実際彼自身も相当お洒落だったので、フランスでの生活にはとても馴染んでいました。

一年先に留学した同郷の画家に、安井曾太郎がいます。梅原と同じ京都の生まれで、同じ画塾で学んだのですが、彼は梅原とは対照的でした。絵描きさんが着る「菜っ葉服」という作業服に手ぬぐいを腰につけたままの恰好で外を歩いていたそうです。
梅原はスーツで決めた紳士、もう一方の安井は作業服のボヘミアン。同じ京都出身なのに、対照的な二人だったということを、高村光太郎が記しています。彼は後に「智恵子抄」で大変有名になった詩人ですが、同時に彫刻家でもありました。むしろ彫刻が本業です。父親・光雲は有名な彫刻家ですが、光雲の美術学校の同僚の美術史家の岩村透が、広い視野を持った方が良いと光雲に息子を留学させるように説得しました。ちなみに、高村は留学と同じ理由で美術学校では彫刻だけでなく、油絵も学んでいます。

そんな高村は「ステュディオ」という雑誌でロダンを見て、ロダンってすごい!とロダンに憧れます。しかしながら、
彼は梅原のように、「コンコンコン・・・」と憧れの先生の家まで訪ねていくといったことが出来ない性格だったので、ロダンを称賛する詩を読んだり、ロダンの言葉を翻訳したりしていました。
積極的に会いたい人物に会いに行く梅原とは異なり、高村はあこがれの人の周りを、くるくると惑星のようにまわっていたのですね。
一方の梅原は、ルノワールという彼の太陽に飛び込んで、ルノワールの火(魂といってもいいかもしれません)をもらって自分の力にしていった、というような印象です。

高村光太郎のほうは、結局画塾にも通わなくなってしまいます。劇場や、カフェで時間を過ごし、夜の街を徘徊するようになり、そんな生活を楽しんだ後イタリアに行き、イタリアのルネサンス芸術を見て(それこそ来年一号館でもレオナルドとともにとりあげるミケランジェロなどかもしれませんが)打ちのめされてしまい、そのままイギリスから日本に帰ってきてしまいます。

―なぜ高村が梅原と安井のことを知っていたのですか?
当時パリの街というのはとても小さかったし、日本の留学生はそれほど人数が多くなかったのです。後に述べますが、神戸からマルセイユまでの船で同室だった田中喜作は、詩人の与謝野鉄幹と面識がありました。与謝野が、パリに行くという田中に、高村への紹介状を持たせたのだと思います。この田中が高村を訪ねる時に、梅原は同行して行ったのでしょう。後に与謝野がパリに遊学する時には、高村の紹介で、梅原が世話をしています。
梅原の交友関係は著名人の名ばかりのサイン帳のような風情で、与謝野鉄幹の妻・晶子が夫を追って、シベリアを横断してパリに着くと、今度は与謝野晶子とも梅原は面識を持っています。梅原の長女の「紅良(あから)」の名前は、与謝野晶子がつけました。

-ずいぶん興味深い話ですが、肝心の梅原と高村の関係は?
あ、すいません。高村は1908年にパリにアトリエを借りていました。留学当初の梅原は、お金がなくて(洋服を買ってしまっていたし、夜は毎日レストランで食べていたので)さすがにアトリエまでは持てず、高村のアトリエに転がりこみました。安井は高村のアトリエの近くにアトリエを借りていたために、二人のことを知っており、どうしてこんなに二人は違うんだ、というような感想を高村が言っていたのですね。

拝ルノ カフェバナー安井学芸員のお話はまだまだ続きます。
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2016年11月8日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー②
<梅原が影響を受けた画家たち>

皆さま、こんにちは。
本日は「梅原が影響を受けた画家たち」をご紹介して参ります。
※「拝啓 ルノワール先生」を担当している、学芸員の安井裕雄に展覧会についてインタビューを行ったものです。

<梅原が影響を受けた画家たち>
「梅原はルノワールだけが好きだったのか?他の画家に興味はなかったのか?」という疑問が出てくるかと思いますが、全くそんなことはなくて、フランスに渡った1908年の秋だけでも、サロン・ドートンヌで見たジョルジュ・ルオーや、今回は出品されていませんが、オランダの画家キース・ヴァン・ドンゲンの絵を見ていることがわかっていて、そのような人たちの影響も受けています。

また、ルオーに興味を持った日本人として、梅原はかなり早い方であると言われています。1921年、実際にルオーの作品を買っています。ルノワール先生が亡くなり、自分の家と持っていた絵を売った資金での二度目の渡仏の際、ルノワールの遺族にあった後、パリに行ってルオーの作品を買って帰国しています。どうもこれが、日本に持ち込まれたルオー第一号の作品のようです。

話が飛びましたが、梅原はルノワールやルオー、ヴァン・ドンゲンの他に、留学当初から、今回展示されているドガにも大変興味を持っていたようです。なぜなら、梅原は後にルノワールに会いに行ったときの様子を雑誌に発表しているのですが、そこにドガについての記述があって、ドガは訪ねてくる人がいると、扉を少しだけ開けて、知らない人や嫌いな人がだと、そのまま“バタン”と扉を閉めてしまう。そんな目にあったら、さぞや悲しかろうというような事が書いてあります。

―実際にドガに会いに行ったのかは書いていないのですか?
はい、実際の事の顛末までは書いてありませんが、あまりにも描写が真に迫っているので、もしかすると梅原はドガを訪ねて行って、扉を閉められてしまったのかもしれませんね。ドガについては大変興味をもっていて、会いに行くことを考えたとは思います。

―そのほかにも興味のある画家はいましたか?
セザンヌも興味を持っていました。こんな記述が残っています。最近の五~六年のルノワールの画は立派なものがあるが、それ以前は、セザンヌに負けているという趣旨です。セザンヌは1906年に亡くなっているので、セザンヌが死んだ後にしかセザンヌよりも良いものが描けていない、セザンヌが死ぬまでルノワールは負けていた、みたいな言い方です。
あれあれ?あなたはルノワールの弟子ではなかったの?というツッコミをいれたくなります。笑

さらにピカソにも興味があったようです。梅原は1911年の春にピカソに会っています。そして1911年の夏に、梅原はスペインに旅行しています。ピカソに会ったことがきっかけで、スペインに対する関心を強めたというのが理由の一つではないかと思います。旅行先のスペインでエル・グレコを見て、彼の影響も受けたのではないかと思われます。その後梅原が描いた《自画像》no.8には、エル・グレコ風に細長く引き伸ばされた身体の表現がみられます。昨年のプラド展にも出品されていましたが、体がぐにゃーと曲がっているあの感じが、まさにグレコの特徴なのです。さらにこの《自画像》no.8は、背景のカーテンの表現や空間構成に、セザンヌの影響がここ30年来指摘されてきましたし、さらに近年では、ピカソの影響を見出す研究者もいます。

つまりは、ルノワール一辺倒ではなかったという事です。

次回は「梅原と留学生活」についてご紹介します。続く。

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2016年11月7日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー①
<展覧会のタイトルについて>

皆さま、こんにちは。
当館ブログにて展覧会についてご紹介して参ります。
本内容は、「拝啓ルノワール先生 ―梅原龍三郎に息づく師の教え」を担当している、学芸員の安井裕雄にインタビューを行ったものです。まずは、展覧会のタイトルに込められた想いからスタートします。

チラシ表紙 ブログ用

<展覧会のタイトルについて>
この展覧会タイトルは、手紙の書き出しを思わせます。梅原龍三郎(以下梅原)がピエール=オーギュスト・ルノワール(以下ルノワール)を回想しながら、手紙を書いている場面を想像してみてください。梅原がルノワールに会いに行くことがそもそもの発端ですが、師と仰ぐルノワールとの初面会の時、彼はまだ20歳の若い無名の画学生でした。まだ画家ですらないわけなのですね。その梅原が日本に帰国後、ある程度有名になった後、(それはルノワールがまだ生きているときかもしれませんし、あるいは亡くなった後かもしれません)先生のことを思い出している、そのような「先生への想い」が伝わるような展覧会にしたいということが、担当者の意識です。

梅原は、ルノワールのことをとても尊敬していましたが、ルノワールに対する想いの熱量がずっと均等に続いていたかというと、そういうわけではありません。
けれども、成功を手にした後も、年始の挨拶、暑中見舞いや残暑見舞いではないけれども、季節ごとに手紙を書くようなシチュエーションには(現代ではその機会も失われつつありますが)、ふと恩師について振り返ってみる機会があったのでは。そういうイメージを強く意識しています、全体として。
実際は館長をはじめ、スタッフが意見を出し合って決定しますので、その他にもいろいろな想いが込められています。
これはあくまでも、担当者としてタイトルに込められた想いの一部とお考え頂ければと思います。

◆次回は「梅原が影響を受けた画家たち」についてご紹介します。続く。
◆「拝啓ルノワール先生 ―梅原龍三郎に息づく師の教え」特設サイトはこちら

2016年9月15日

キャメロン展・Store1894/特設ショップもあとわずか!

皆さまこんにちは。
本日はStore1894についてご紹介いたします。
ストアは鑑賞券なしで、いつでも自由にお買い物をお楽しみ頂けます。

ところで、キャメロン展ではストアがギャラリー仕様に変身していたことにお気づきでしょうか?
今回のショップ展開には、ブックショップ「POST」の中島佑介さんにご協力頂いています。
今回は閉幕前に改めて、中島さんにお話を伺いました。

出入り口ドアに向かて 投稿用
キャメロン展仕様のストアも期間限定で、キャメロン展の終了とともに消えてしまいますので、
気になった方は最後にもう一度ご来店ください!

―今回のストアのコンセプトを教えてください。
ジュリア・マーガレット・キャメロンという、ビクトリアリズムの作家のミュージアムショップでは、
「写真を持ち帰ることができる」あるいは、「芸術写真に触れる機会としてミュージアムショップ」
として機能させたいというお話があり、具体的にどのようなものが良いか考えました。

その中で重視したのは、写真集です。といっても、ただの図版ということではなくて、アートブックとして
魅力のあるものを扱いたいと考えました。さらに「写真を購入して飾る」という価値観をご提案できないかと。
キャメロンやビクトリアリズムと親和性のある作品をギャラリーからお借りして、
実際に販売する機会を設けたことが大きな2つの構成になっています。

―具体的にはどのような写真集をセレクトしたのですか?
キャメロンという作家を軸にして、彼女と関連性のある作家や、キャメロンから影響を受けた作家の写真集を
取扱いたいという想いがありましたので、写真史家の金子隆一さんに監修に入って頂き、その助言に基づいて
選択を行っていきました。新刊・古書問わずセレクトしています。価格帯もさまざまです。
普段は入手困難な商品もあります。

イギリスのビクトリアリズムが、日本の写真にとても影響を与えているという事を金子さんから伺いました。
イギリスのビクトリアリズムの文化が日本に紹介されたことをきっかけに、日本に芸術写真というものが広がった
というお話から、日本とイギリスの関係性も写真集をきっかけに知って頂ければと、和書もセレクトしています。
ストア正面 投稿用

―販売されている写真が高いので驚きました!
販売している写真は、写真芸術協会に所属しているギャラリーにご協力頂き、キャメロンやビクトリアリズムの写真を
お借りして販売しています。美術館ですと美術・鑑賞品として写真を見ますが、今回はその作品が購入できるものである
という気づきの体験をして頂けるよう、作品の横に金額を大きく表示しています。

また作家の背景が解らないと、購入しようという事にもならないかと思いますので、
すべての商品説明を店内に設置しています。
ストア角 投稿用

―写真に興味を持つのにおすすめの商品を教えてください。
やはり最初は写真集を通じて興味を持ってもらうのがいいのではないかと思います。
V&Aで開催したキャメロン展の図録がMACKというイギリスの出版社から出ているのですが、デザイン性も大変高く、
そちらも販売しています。最初のきっかけになるものは、知識などなくても「あ、これおもしろい」と思ったものを、
手に取って頂ければと思います。もちろんポストカードでもよいと思います。写真というものに価格がつき販売していて、持ち帰り、生活の中に取り入れられるものだという事に気が付いてもらえれば良いな、と思っています。

―もっと作品を見たいと思った場合は、ギャラリーの紹介もして頂けるのですか?
はい、今回ご協力頂いているギャラリーを紹介致しますので、そちらを訪ねて頂く事も可能です。
今回はヴィンテージプリントが多いので値段が高めですが、もっと安い価格帯のものもありますので、
気軽に訪ねて頂ければと思います。興味を持った作家に対しては、ギャラリーの方も丁寧に教えてくださいますよ。

―キャメロン展の感想をお聞かせください。
キャメロンについては知ってはいましたが、実際のプリントを見たことはなかったので、
今回の展覧会はとても貴重なものでした。印刷物では伝わらない良さがあるなぁ、と思いました。
写真は2次元的な芸術ので、写真集を見ることで満足してしまうことが多いと思うんです。
ほかの絵画や彫刻といった芸術に比べて。
ただ写真も実際のプリントでしかわからないこともたくさんあるので、オリジナルをみる必要があるな、と。

6ジュリア・マーガレット・キャメロン《ベアトリーチェ》1866年 
ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館蔵
©Victoria and Albert Museum, London

キャメロンについて言えば、光で絵を書いていた人だと。光で絵を書くことを始めた最初の女性作家なのではないか
という感じがしました。また写真は、被写体との距離感や関係性が現れてしまうので、キャメロンと彼女の被写体の
関係性も表れているように感じました。「これがこうだから」この写真が良い。という明確な理由づけがしにくい、
言葉にしにくい感覚が、写真に定着されているのではないでしょうか。

―キャメロンの写真が絵画だと思ったとのお声も頂きました。記録写真と比較すると違うものでしょうか?
違うと思います。
特に技法としてブラしてみたり、ただ現実を正確に記録するという事をしていた作家ではないと解りますね。
この秋は国内でも写真の良い展覧会がたくさんありますので、キャメロンと比べてみても面白のではないでしょうか。TOP MUSEUMの杉本博司さんの展覧会、国立近代美術館のトーマス・ルフ展、原美術館の篠山紀信さんの写真展も
大変評判がいいと聞いています。

写真は複製の技術であると思われているので、オリジナルのプリントに対する価値を見出すことが難しくあるのですが、
そうではないというところを理解すると見え方も変わってくると思います。

ただ、この数年で写真が芸術の一つであると認識されている方が増えているように感じます。
それは世界的な写真ブームもあると思いますが、テートモダンについているキュレーターが日本の写真を集めたり、
美術館で行っている継続した活動も実を結んでいると思います。写真がコレクションになるという事自体が、
最初は価値観になかったので、V&Aが写真をコレクションとして収蔵したことは画期的なことだったと思います。

―最後にメッセージをお願いします。
今回のショップは、美術館の感覚をそのまま持って帰れる店内になっています。
ぜひ美術館の体験をきっかけに、ご自身の生活の中に広げていって頂ければと思います。

―中島さん有難うございました!
ご興味を持たれた方は、中島さんが運営されている恵比寿にあるブックショップ「POST」
にもぜひ足を運んでみてください!