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2016年11月10日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー③<梅原と留学生活>

皆さま、こんにちは。
本日は「梅原と留学生活」をご紹介して参ります。
※「拝啓 ルノワール先生」を担当している、学芸員の安井裕雄に展覧会についてインタビューを行ったものです。

<梅原と留学生活>
梅原は、生活面でも強い個性を発揮しました。
梅原は京都の悉皆屋(しっかいや)の生まれです。悉皆屋とはお得意さんの注文を受けて、絹を切り分け、染め、刺繍、
縫いなどの職人さんに渡し、手仕事が終わったのちに、出来上がった着物お得意さんに納める、着物をプロデュースするお仕事です。そのような反物・着物に囲まれた環境で育ったために、梅原は装飾品を含め装い全般に大変興味がありました。梅原は留学時に、パリに到着するとすぐスーツを作っていますし、しばらくしてコートもあつらえたという話です。実際彼自身も相当お洒落だったので、フランスでの生活にはとても馴染んでいました。

一年先に留学した同郷の画家に、安井曾太郎がいます。梅原と同じ京都の生まれで、同じ画塾で学んだのですが、彼は梅原とは対照的でした。絵描きさんが着る「菜っ葉服」という作業服に手ぬぐいを腰につけたままの恰好で外を歩いていたそうです。
梅原はスーツで決めた紳士、もう一方の安井は作業服のボヘミアン。同じ京都出身なのに、対照的な二人だったということを、高村光太郎が記しています。彼は後に「智恵子抄」で大変有名になった詩人ですが、同時に彫刻家でもありました。むしろ彫刻が本業です。父親・光雲は有名な彫刻家ですが、光雲の美術学校の同僚の美術史家の岩村透が、広い視野を持った方が良いと光雲に息子を留学させるように説得しました。ちなみに、高村は留学と同じ理由で美術学校では彫刻だけでなく、油絵も学んでいます。

そんな高村は「ステュディオ」という雑誌でロダンを見て、ロダンってすごい!とロダンに憧れます。しかしながら、
彼は梅原のように、「コンコンコン・・・」と憧れの先生の家まで訪ねていくといったことが出来ない性格だったので、ロダンを称賛する詩を読んだり、ロダンの言葉を翻訳したりしていました。
積極的に会いたい人物に会いに行く梅原とは異なり、高村はあこがれの人の周りを、くるくると惑星のようにまわっていたのですね。
一方の梅原は、ルノワールという彼の太陽に飛び込んで、ルノワールの火(魂といってもいいかもしれません)をもらって自分の力にしていった、というような印象です。

高村光太郎のほうは、結局画塾にも通わなくなってしまいます。劇場や、カフェで時間を過ごし、夜の街を徘徊するようになり、そんな生活を楽しんだ後イタリアに行き、イタリアのルネサンス芸術を見て(それこそ来年一号館でもレオナルドとともにとりあげるミケランジェロなどかもしれませんが)打ちのめされてしまい、そのままイギリスから日本に帰ってきてしまいます。

―なぜ高村が梅原と安井のことを知っていたのですか?
当時パリの街というのはとても小さかったし、日本の留学生はそれほど人数が多くなかったのです。後に述べますが、神戸からマルセイユまでの船で同室だった田中喜作は、詩人の与謝野鉄幹と面識がありました。与謝野が、パリに行くという田中に、高村への紹介状を持たせたのだと思います。この田中が高村を訪ねる時に、梅原は同行して行ったのでしょう。後に与謝野がパリに遊学する時には、高村の紹介で、梅原が世話をしています。
梅原の交友関係は著名人の名ばかりのサイン帳のような風情で、与謝野鉄幹の妻・晶子が夫を追って、シベリアを横断してパリに着くと、今度は与謝野晶子とも梅原は面識を持っています。梅原の長女の「紅良(あから)」の名前は、与謝野晶子がつけました。

-ずいぶん興味深い話ですが、肝心の梅原と高村の関係は?
あ、すいません。高村は1908年にパリにアトリエを借りていました。留学当初の梅原は、お金がなくて(洋服を買ってしまっていたし、夜は毎日レストランで食べていたので)さすがにアトリエまでは持てず、高村のアトリエに転がりこみました。安井は高村のアトリエの近くにアトリエを借りていたために、二人のことを知っており、どうしてこんなに二人は違うんだ、というような感想を高村が言っていたのですね。

拝ルノ カフェバナー安井学芸員のお話はまだまだ続きます。
◆「拝啓ルノワール先生 ―梅原龍三郎に息づく師の教え」特設サイトはこちら
◆前回のブログ<展覧会のタイトルについて>はこちら

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「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー③<梅原と留学生活>

皆さま、こんにちは。
本日は「梅原と留学生活」をご紹介して参ります。
※「拝啓 ルノワール先生」を担当している、学芸員の安井裕雄に展覧会についてインタビューを行ったものです。

<梅原と留学生活>
梅原は、生活面でも強い個性を発揮しました。
梅原は京都の悉皆屋(しっかいや)の生まれです。悉皆屋とはお得意さんの注文を受けて、絹を切り分け、染め、刺繍、
縫いなどの職人さんに渡し、手仕事が終わったのちに、出来上がった着物お得意さんに納める、着物をプロデュースするお仕事です。そのような反物・着物に囲まれた環境で育ったために、梅原は装飾品を含め装い全般に大変興味がありました。梅原は留学時に、パリに到着するとすぐスーツを作っていますし、しばらくしてコートもあつらえたという話です。実際彼自身も相当お洒落だったので、フランスでの生活にはとても馴染んでいました。

一年先に留学した同郷の画家に、安井曾太郎がいます。梅原と同じ京都の生まれで、同じ画塾で学んだのですが、彼は梅原とは対照的でした。絵描きさんが着る「菜っ葉服」という作業服に手ぬぐいを腰につけたままの恰好で外を歩いていたそうです。
梅原はスーツで決めた紳士、もう一方の安井は作業服のボヘミアン。同じ京都出身なのに、対照的な二人だったということを、高村光太郎が記しています。彼は後に「智恵子抄」で大変有名になった詩人ですが、同時に彫刻家でもありました。むしろ彫刻が本業です。父親・光雲は有名な彫刻家ですが、光雲の美術学校の同僚の美術史家の岩村透が、広い視野を持った方が良いと光雲に息子を留学させるように説得しました。ちなみに、高村は留学と同じ理由で美術学校では彫刻だけでなく、油絵も学んでいます。

そんな高村は「ステュディオ」という雑誌でロダンを見て、ロダンってすごい!とロダンに憧れます。しかしながら、
彼は梅原のように、「コンコンコン・・・」と憧れの先生の家まで訪ねていくといったことが出来ない性格だったので、ロダンを称賛する詩を読んだり、ロダンの言葉を翻訳したりしていました。
積極的に会いたい人物に会いに行く梅原とは異なり、高村はあこがれの人の周りを、くるくると惑星のようにまわっていたのですね。
一方の梅原は、ルノワールという彼の太陽に飛び込んで、ルノワールの火(魂といってもいいかもしれません)をもらって自分の力にしていった、というような印象です。

高村光太郎のほうは、結局画塾にも通わなくなってしまいます。劇場や、カフェで時間を過ごし、夜の街を徘徊するようになり、そんな生活を楽しんだ後イタリアに行き、イタリアのルネサンス芸術を見て(それこそ来年一号館でもレオナルドとともにとりあげるミケランジェロなどかもしれませんが)打ちのめされてしまい、そのままイギリスから日本に帰ってきてしまいます。

―なぜ高村が梅原と安井のことを知っていたのですか?
当時パリの街というのはとても小さかったし、日本の留学生はそれほど人数が多くなかったのです。後に述べますが、神戸からマルセイユまでの船で同室だった田中喜作は、詩人の与謝野鉄幹と面識がありました。与謝野が、パリに行くという田中に、高村への紹介状を持たせたのだと思います。この田中が高村を訪ねる時に、梅原は同行して行ったのでしょう。後に与謝野がパリに遊学する時には、高村の紹介で、梅原が世話をしています。
梅原の交友関係は著名人の名ばかりのサイン帳のような風情で、与謝野鉄幹の妻・晶子が夫を追って、シベリアを横断してパリに着くと、今度は与謝野晶子とも梅原は面識を持っています。梅原の長女の「紅良(あから)」の名前は、与謝野晶子がつけました。

-ずいぶん興味深い話ですが、肝心の梅原と高村の関係は?
あ、すいません。高村は1908年にパリにアトリエを借りていました。留学当初の梅原は、お金がなくて(洋服を買ってしまっていたし、夜は毎日レストランで食べていたので)さすがにアトリエまでは持てず、高村のアトリエに転がりこみました。安井は高村のアトリエの近くにアトリエを借りていたために、二人のことを知っており、どうしてこんなに二人は違うんだ、というような感想を高村が言っていたのですね。

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