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2016年11月8日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー②<梅原が影響を受けた画家たち>

皆さま、こんにちは。
本日は「梅原が影響を受けた画家たち」をご紹介して参ります。
※「拝啓 ルノワール先生」を担当している、学芸員の安井裕雄に展覧会についてインタビューを行ったものです。

<梅原が影響を受けた画家たち>
「梅原はルノワールだけが好きだったのか?他の画家に興味はなかったのか?」という疑問が出てくるかと思いますが、全くそんなことはなくて、フランスに渡った1908年の秋だけでも、サロン・ドートンヌで見たジョルジュ・ルオーや、今回は出品されていませんが、オランダの画家キース・ヴァン・ドンゲンの絵を見ていることがわかっていて、そのような人たちの影響も受けています。

また、ルオーに興味を持った日本人として、梅原はかなり早い方であると言われています。1921年、実際にルオーの作品を買っています。ルノワール先生が亡くなり、自分の家と持っていた絵を売った資金での二度目の渡仏の際、ルノワールの遺族にあった後、パリに行ってルオーの作品を買って帰国しています。どうもこれが、日本に持ち込まれたルオー第一号の作品のようです。

話が飛びましたが、梅原はルノワールやルオー、ヴァン・ドンゲンの他に、留学当初から、今回展示されているドガにも大変興味を持っていたようです。なぜなら、梅原は後にルノワールに会いに行ったときの様子を雑誌に発表しているのですが、そこにドガについての記述があって、ドガは訪ねてくる人がいると、扉を少しだけ開けて、知らない人や嫌いな人がだと、そのまま“バタン”と扉を閉めてしまう。そんな目にあったら、さぞや悲しかろうというような事が書いてあります。

―実際にドガに会いに行ったのかは書いていないのですか?
はい、実際の事の顛末までは書いてありませんが、あまりにも描写が真に迫っているので、もしかすると梅原はドガを訪ねて行って、扉を閉められてしまったのかもしれませんね。ドガについては大変興味をもっていて、会いに行くことを考えたとは思います。

―そのほかにも興味のある画家はいましたか?
セザンヌも興味を持っていました。こんな記述が残っています。最近の五~六年のルノワールの画は立派なものがあるが、それ以前は、セザンヌに負けているという趣旨です。セザンヌは1906年に亡くなっているので、セザンヌが死んだ後にしかセザンヌよりも良いものが描けていない、セザンヌが死ぬまでルノワールは負けていた、みたいな言い方です。
あれあれ?あなたはルノワールの弟子ではなかったの?というツッコミをいれたくなります。笑

さらにピカソにも興味があったようです。梅原は1911年の春にピカソに会っています。そして1911年の夏に、梅原はスペインに旅行しています。ピカソに会ったことがきっかけで、スペインに対する関心を強めたというのが理由の一つではないかと思います。旅行先のスペインでエル・グレコを見て、彼の影響も受けたのではないかと思われます。その後梅原が描いた《自画像》no.8には、エル・グレコ風に細長く引き伸ばされた身体の表現がみられます。昨年のプラド展にも出品されていましたが、体がぐにゃーと曲がっているあの感じが、まさにグレコの特徴なのです。さらにこの《自画像》no.8は、背景のカーテンの表現や空間構成に、セザンヌの影響がここ30年来指摘されてきましたし、さらに近年では、ピカソの影響を見出す研究者もいます。

つまりは、ルノワール一辺倒ではなかったという事です。

次回は「梅原と留学生活」についてご紹介します。続く。

◆「拝啓ルノワール先生 ―梅原龍三郎に息づく師の教え」特設サイトはこちら
◆前回のブログ<展覧会のタイトルについて>はこちら

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「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー②<梅原が影響を受けた画家たち>

皆さま、こんにちは。
本日は「梅原が影響を受けた画家たち」をご紹介して参ります。
※「拝啓 ルノワール先生」を担当している、学芸員の安井裕雄に展覧会についてインタビューを行ったものです。

<梅原が影響を受けた画家たち>
「梅原はルノワールだけが好きだったのか?他の画家に興味はなかったのか?」という疑問が出てくるかと思いますが、全くそんなことはなくて、フランスに渡った1908年の秋だけでも、サロン・ドートンヌで見たジョルジュ・ルオーや、今回は出品されていませんが、オランダの画家キース・ヴァン・ドンゲンの絵を見ていることがわかっていて、そのような人たちの影響も受けています。

また、ルオーに興味を持った日本人として、梅原はかなり早い方であると言われています。1921年、実際にルオーの作品を買っています。ルノワール先生が亡くなり、自分の家と持っていた絵を売った資金での二度目の渡仏の際、ルノワールの遺族にあった後、パリに行ってルオーの作品を買って帰国しています。どうもこれが、日本に持ち込まれたルオー第一号の作品のようです。

話が飛びましたが、梅原はルノワールやルオー、ヴァン・ドンゲンの他に、留学当初から、今回展示されているドガにも大変興味を持っていたようです。なぜなら、梅原は後にルノワールに会いに行ったときの様子を雑誌に発表しているのですが、そこにドガについての記述があって、ドガは訪ねてくる人がいると、扉を少しだけ開けて、知らない人や嫌いな人がだと、そのまま“バタン”と扉を閉めてしまう。そんな目にあったら、さぞや悲しかろうというような事が書いてあります。

―実際にドガに会いに行ったのかは書いていないのですか?
はい、実際の事の顛末までは書いてありませんが、あまりにも描写が真に迫っているので、もしかすると梅原はドガを訪ねて行って、扉を閉められてしまったのかもしれませんね。ドガについては大変興味をもっていて、会いに行くことを考えたとは思います。

―そのほかにも興味のある画家はいましたか?
セザンヌも興味を持っていました。こんな記述が残っています。最近の五~六年のルノワールの画は立派なものがあるが、それ以前は、セザンヌに負けているという趣旨です。セザンヌは1906年に亡くなっているので、セザンヌが死んだ後にしかセザンヌよりも良いものが描けていない、セザンヌが死ぬまでルノワールは負けていた、みたいな言い方です。
あれあれ?あなたはルノワールの弟子ではなかったの?というツッコミをいれたくなります。笑

さらにピカソにも興味があったようです。梅原は1911年の春にピカソに会っています。そして1911年の夏に、梅原はスペインに旅行しています。ピカソに会ったことがきっかけで、スペインに対する関心を強めたというのが理由の一つではないかと思います。旅行先のスペインでエル・グレコを見て、彼の影響も受けたのではないかと思われます。その後梅原が描いた《自画像》no.8には、エル・グレコ風に細長く引き伸ばされた身体の表現がみられます。昨年のプラド展にも出品されていましたが、体がぐにゃーと曲がっているあの感じが、まさにグレコの特徴なのです。さらにこの《自画像》no.8は、背景のカーテンの表現や空間構成に、セザンヌの影響がここ30年来指摘されてきましたし、さらに近年では、ピカソの影響を見出す研究者もいます。

つまりは、ルノワール一辺倒ではなかったという事です。

次回は「梅原と留学生活」についてご紹介します。続く。

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