寛政9(1797)年、日本橋の染物屋の家に生まれる。幼少時から絵を好み、文化5(1808)年12歳で初代歌川豊国に入門。一勇斎、朝桜楼などと称す。発表を始めてから人気が出るのは遅かった。豊国没後の文政10(1827)年頃、『水滸伝』に取材した《通俗水滸伝豪傑百八人之一個》シリーズが評判となる。
奇抜な発想の風刺画、ダイナミックな武者絵などを大判3枚続きの画面に展開して人気を博す。西欧の銅版画に学ぶとともに、名所絵、美人画、役者絵や戯画と幅広く手掛けた。猫を描いた戯画も多く知られる。文久元(1861)年没。彼が育てた数多くの弟子が明治6(1873)年、国芳13回忌に建立した顕彰碑が三囲神社にある。
天保4(1833)年、吉原日本堤下の編笠茶屋に生まれる。幼少から国芳門下の芳兼の仕事を見て育ち、質屋の奉公に出されるが、嘉永2(1849)年頃、17-18歳で国芳に入門した。一蕙斎、朝霞楼と称す。安政2(1855)年に江戸を襲った大地震の惨状を写した錦絵で名声を得る。国芳が没した際には弟子を代表して死絵を担当した。戯作者や好事家との交流が多く、明治以降はこうした仲間との事業に携わる。明治5(1872)年、「東京日日新聞」の創刊に参画して記事を錦絵にしたり、明治8(1875)年創刊の「平仮名絵入新聞」に挿絵を描いたりして転身を図った。明治37(1904)年没。
天保10(1839)年生まれ。本名は吉岡(後に月岡)米次郎。嘉永3(1850)年、12歳で国芳に入門。玉桜楼、一魁斎などと称す。国芳を踏襲して武者絵を多く描くが、スランプに陥り神経を病んだ。恢復を機に明治6(1873)年「大蘇」を名乗り、時事的な作品など精力的に手掛ける。菊池容斎の歴史人物画や西洋画に学んで新機軸をもたらした武者絵や歴史画には、明治政府による皇国史観の反映もみられる。芳幾に対抗して「郵便報知新聞」の新聞錦絵にも携わった。晩年には《風俗三十二相》など美人画の代表作を描き、また《月百姿》などの静謐な作風で江戸回帰を志向するが、病を再発し明治25(1892)年に没した。
芳幾が国芳に入門したのは嘉永2(1849)年頃、17-18歳の頃でした。芳年はその翌年、12歳で入門しています。そのとき国芳は50歳代前半。この頃、彼の弾圧を目論んだ老中水野忠邦は既に失脚していましたが、国芳はなおも幕府批判の疑いで奉行所から睨まれる存在でした。しかしそうした規制をかいくぐって風刺を続ける国芳に江戸の庶民は喝采を送っていたのです。親子ほどにも年齢の離れた師弟でしたが、こうした師の姿に二人は頼もしさを感じていたのではないでしょうか。その指導の許で彼らは頭角を現すことになります。
江戸後期から幕末にかけての浮世絵界は歌川派が隆盛を誇っており、その黄金期を築いた国芳には多くの門人がいましたが、その筆頭と目されるようになったのは芳幾と芳年でした。当時の人気番付をみると、国芳の弟子の中で二人ともに上位にランキングされているのが分かります。彼らは国芳の教えやその作風をよく受け継ぎ、それぞれのやり方で新しい時代を切り拓いていったのです。
国芳の出世作となり、その最も得意としたのは武者絵でした。芳幾の武者絵を見ると、モデルを正面から捉え、その余白に物語を記述する点で師の作風を忠実に受け継いでいることが分かります。その一方で芳年は背景を無地としてモデルが浮かびあがるように、さらに見上げるような大胆な視点で描くことでダイナミックな効果をあげています。
器用だが覇気のない芳幾と、覇気はあるが不器用な芳年。師によるなんとも辛辣な評価です。しかしその眼は鋭く、この評言は彼らの後の生き様まで見通しているようです。
作風をみると芳幾は国芳の正統な継承者でした。しかし彼は浮世絵に見切りをつけ新聞錦絵という新事業へと進みます。芳年は浮世絵にこだわり続け、結果として新しい歴史画の境地を開きました。本展を通して、二人が師から何を吸収し展開していったのかを考えます。
国芳の葬儀の際、芳幾は人混みに座る芳年をじゃまだと足蹴にしたそうです。兄貴風を吹かせたかったのでしょうか。その5年後には二人で《英名二十八衆句》を共作しており、決して仲が悪いということではなかったようです。明治7(1874)年に芳幾が「東京日日新聞」の錦絵を手掛けるようになると、翌年から刊行された「郵便報知新聞」では芳年が起用されます。これは周囲もまた彼らをライバルと目していたということでしょう。しかし晩年に至ると、芳幾は自分の作風にこだわらず、芳年の図を焼き直して流用していたそうです。これを知った芳年は「昔日の恥辱始めて晴るゝ感が深い」と言って笑ったそう。足蹴にされた恨みでしょうか、とはいえ師の没後20年は経っています。芳年恐るべし……。
歌舞伎などに現れる凄惨な場面を、芳幾と芳年で14図づつ分担して描きました。いわゆる血みどろ絵(無惨絵)を代表する浮世絵として有名ですが、これらは江戸から明治に至る不穏な世相を反映したものとも考えられています。下の二図ともそれぞれ国芳の影響が指摘されていますが、独自な画面とするための創意が見られます。芳幾は一見涼やかな、しかしよくみるとショッキングな水中として描き、芳年は強い色彩によって明快な画面に組み立てています。
これまで芳幾・芳年の画業の紹介は、浮世絵版画を中心になされてきましたが、本展においては肉筆画も多く出品することで二人の画技の比較を試みます。
東京日々新聞は明治5(1872)年に発刊された東京で初めての日刊新聞です。現在の毎日新聞の源流にあたります。親しい間柄であった落合芳幾、條野採菊(鏑木清方の父)、西田伝助により創刊されました。翌年には岸田吟香(岸田劉生の父)が入社します。その翌年に大蔵省の役人であった福地桜痴が入社すると社説欄が設けられ、政府の御用新聞の色彩を強めました。芳幾は明治7(1874)年、東京日々新聞からゴシップ的な記事を取り上げて描いた新聞錦絵を始めて、絶大な人気を博しました。
師の得意とした武者絵を継承した芳年ですが、変動する時代の趨勢のなかで彼自身の作画を突き詰めていきます。写生を重視することは国芳の指導でしたが、芳年はさらに西洋画法や、歴史肖像の手本となった菊池容斎『前賢故実』に学び、全く新しいタイプの武者絵を生み出しました。カメラアングルのような視点の意識は、それまでの浮世絵には見られなかったものです。それによって現代の私たちが観ているアニメーションの画面のような、動きのある劇的な効果が生じています。芳年はこうした成果を生かして、武者絵のみならず歴史的な人物や逸話についての作品も数多く残しました。
芳年晩年の《月百姿》は100枚からなる大規模なシリーズですが、月にちなんだ歴史上の人物の物語が取り上げられており、江戸時代回顧の気分が偲ばれるとともに、彼が到達した静かな境地をも示しています。