みどころ

ピエール=オーギュスト・ルノワール《ピエロ姿のクロード・ルノワール》

1909年、油彩・カンヴァス、オランジュリー美術館

© GrandPalaisRmn (musée de l'Orangerie) / Franck Raux / distributed by AMF

ビエール=オーギュスト・ルノワール《ガブリエルとジャン》

1895-1896年頃、油彩・カンヴァス、オランジュリー美術館

© GrandPalaisRmn (musée de l'Orangerie) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

ポール・セザンヌ《セザンヌ夫人の肖像》

1885-1895年、油彩・カンヴァス、オランジュリー美術館

© GrandPalaisRmn (musée de l'Orangerie) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

ポール・セザンヌ《画家の息子の肖像》

1909年、油彩・カンヴァス、オランジュリー美術館

© GrandPalaisRmn(musée de l'Orangerie) / Franck Raux / distributed by AMF

ピエール=オーギュスト・ルノワール《イギリス種の梨の木》

1873年頃、油彩・カンヴァス、オルセー美術館

© Musée d'Orsay, Dist. GrandPalaisRmn / Patrice Schmidt / distributed by AMF

ボール・セザンヌ《赤い岩》

1895-1900年頃、油彩・カンヴァス、オランジュリー美術館

© GrandPalaisRmn (musée de l'Orangerie)/ Hervé Lewandowski /distributed by AMF

ピエール=オーギュスト・ルノワール《風景の中の裸婦》

1883年、油彩・カンヴァス、オランジュリー美術館

© GrandPalaisRmn (musée de l'Orangerie) / Franck Raux / distributed by AMF

ビエール=オーギュスト・ルノワール《ピアノの前の少女たち》

1892年頃、油彩・カンヴァス、オランジュリー美術館

@ GrandPalaisRmn (musée de l'Orangerie)/ Franck Raux / distributed by AMF

ポール・セザンヌ《3人の浴女》

1874-1875年頃、油彩・カンヴァス、オルセー美術館

© GrandPalaisRmn (musée d'Orsay)/ Hervé Lewandowski / distributed by AMF

ピエール=オーギュスト・ルノワール《花瓶の花》

1898年、油彩・カンヴァス、オランジュリー美術館

© GrandPalaisRmn(musée de l'Orangerie)/ Franck Raux / distributed by AMF

ピエール=オーギュスト・ルノワール《桃》

1881年、油彩・カンヴァス、オランジュリー美術館

© GrandPalaisRmn (musée de l'Orangerie) / Hervé Lewandowski / distributed by AMF

ボール・セザンヌ《青い花瓶》

1889-1890年、油彩・カンヴァス、オルセー美術館

© Musée d'Orsay, Dist. GrandPalaisRmn / Patrice Schmidt / distributed by AMF

ボール・セザンヌ《わらひもを巻いた壺、砂糖、りんご》

1890-1894年、油彩・カンヴァス、オランジュリー美術館

©Grand PalaisRmn (musée de l'Orangerie) / Hervé Lewandowski/ distributed by AMF

知られざる
巨匠2人の交流

ピエール=オーギュスト・
ルノワール
Pierre-Auguste Renoir, 1841-1919

ルノワールはフランス中西部リモージュの仕立て職人とお針子の家庭に生まれ、13歳で陶器絵付職人の見習いとなりますが、1861年にグレールの画塾にてモネやシスレーらと共に学び画家を志します。印象派展開催の立役者となりますが、サロンにも出品し入選しています。しかし、その後顕著となる形態が溶け出すような印象派の技法になじめず、明確な線描を重んじる様式へ回帰します。また、画家カイユボットが収集したルノワールやセザンヌを含む印象派らの作品は、ルノワールが遺言執行人となってその寄贈をめぐる政府とのやり取りが行われ、反対がありつつも一部受け入れられることに成功しました。

ポール・セザンヌ Paul Cézanne, 1839-1906

セザンヌはエクス=アン=プロヴァンスの裕福な銀行家の息子として、資産家家庭に育ちました。法律家への道を打ち切りパリに出て画家になる決心をします。ただ、カフェ・ゲルボワのような印象派の画家や仲間たちが集うところに顔を出すことはあっても、セザンヌは、ピサロやルノワールを除いて人々と懇意になることはありませんでした。社交にあまり重きをおかず、エクスとパリを往復して自身の制作に打ち込みました。形態を重んじて自身の感覚に従い構成する作風は、20世紀に絵画の自律性、純粋性が謳われる中で「近代絵画の父」と呼ばれるようになります。

出会い

1860年代の初め頃、画家フレデリック・バジール(1870年の普仏戦争で戦死)が、ルノワールのところへセザンヌを連れて行き紹介したのが、二人の最初の出会いといわれています。

1882年のレスタック

1882年、南仏のレスタックで制作していたセザンヌをルノワールが訪ねます。冬にルノワールが肺炎を思った時には、セザンヌと彼の母が献身的に看病しました。この頃にルノワールが制作した作品はセザンヌのもとに置かれ、翌年パリのデュランニリュエル画廊で、ルノワールが個展の開催準備をする際、残してきた作品のうち風景画2点を戻して欲しいと手紙を書き送っています。作品をやり取りする間柄であり、家族ぐるみの付き合いがあったようです。

セザンヌの展示をみたルノワールの好意的な態度

印象派やそれに近い仲間うちでは知られていたものの、一般的にセザンヌの名は、1895年のヴォラール画廊の個展をもって徐々に認められるようになります。ピサロは展覧会を訪問したときのことを息子のリュシアンに宛てた手紙の中で回想し、ルノワールがセザンヌの作品に対して好意的だったことを言い残しています。
「セザンヌの展示についてまた思い返した。セザンヌの展覧会には、素晴らしいもの、申し分のない完璧な静物画、未完成でありながら多くの作業を経てさらに美しくなったもの、未完成でありながら壮大で、とても繊細に描かれた風景画、裸体像、頭部…なぜなら感覚がそこにあるからだ!…(中略)不思議なことに、長年親しんできたセザンヌの奇妙で不穏な様相にみとれているうちに、ルノワールがやってきた。しかし、私の熱狂はルノワールの比ではなかったと思う。」
他にもドガ、モネといった画家もセザンヌの展示をみていたようですが、ルノワールは特に喜んでいたようです。ルノワール、ドが、モネはこの展覧会でセザンヌの作品を購入しています。