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HIGHLIGHT本展の⾒どころ

作品リスト

3つの見どころ

  1. 日本では35年ぶりとなる
    初期から
    晩年までの作品を集めた大回顧展
  2. テート美術館から、
    同時代の画家の作品も含め60点が来日
  3. 好敵手 ライヴァル ターナーとの
    対決が勃発した展示を再現

コンスタブル 対 ターナー

二作品がそろうのは1832年の展示を
除くと本展が3回目で、
ロンドン以外では初めての展示。

《ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)》は、ロイヤル・アカデミー展において、ターナーの《ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号》と並んで展示されました 。ターナーは寒色の銀色がかった自身の海景画が、燃えるような色彩を散りばめたコンスタブルの大型作品の隣に配されたことを知り、「ヴァーニシング・デー[最終仕上げの日]」と呼ばれる手直しの期間に、《ヘレヴーツリュイス》の右下方に鮮やかな赤色の塊を描き加えてブイの形に仕立て上げ、一気に観客の視線を自作に引きつけようと画策したのです。 後日コンスタブルは、「ターナーはここにやってきて、銃をぶっ放していったよ」とこぼしたと伝えられます。

  • J.M.W.TurnerJ.M.W.ターナー
    《ヘレヴーツリュイスから
    出航するユトレヒトシティ64号》
    1832年、油彩/カンヴァス、91.4×122.0cm、
    東京富士美術館蔵
    ©東京富士美術館イメージアーカイブ/DNPartcom

    ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号J.M.W.Turner
  • John Constableジョン・コンスタブル
    《ウォータールー橋の開通式
    (ホワイトホールの階段、
    1817年6月18日)》
    1832年発表、油彩/カンヴァス、130.8×218.0cm、
    テート美術館蔵 ©Tate

    ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)John Constable

展⽰構成

chapter.1 1章イースト・バーゴルトの
コンスタブル家

コンスタブルは1776年、イングランド東部に位置するサフォーク州イースト・バーゴルトに⽣まれました。⽗が製粉業を営む故郷のフラットフォード周辺は、⼦どもの頃の楽しい記憶と結びつく⼟地であり、このような⾵景の思い出こそが画家を志す最初のきっかけになった、とコンスタブルは後に語っています。 ロンドンのロイヤル・アカデミー美術学校⼊学後も、⾃分が強く愛着を感じる⼟地を描くことにこだわり、夏は毎年、故郷で地元の⾵景を描きました。当時は「歴史(物語)」画と肖像画が優位に置かれ、⾵景画では⾃活できなかったため、敢えてジェントリ層の肖像画を⼿がけることもありましたが、機会があればいつでも⾵景画の制作に⽴ち戻りました。
この章では、若きコンスタブルに重⼤な影響を与えた画家たち、すなわち18世紀の肖像画家にして⾵景画家のトマス・ゲインズバラ(1727-1788年)、著名な美術通でアマチュア画家でもあったジョージ・ボーモント(1753-1827年)、ロイヤル・アカデミーの重鎮であった歴史画家ベンジャミン・ウェスト(1738-1820年)、ともに⾵景画を⼤きく前進させた好敵⼿ターナー(1775-1851年)らの作品も紹介します。

  • ブリッジズ一家

    《ブリッジズ一家》1804年、油彩/カンヴァス、135.9×183.8cm、
    テート美術館蔵 ©Tate

  • マライア・ビックネル、ジョン・コンスタブル夫人

    《マライア・ビックネル、ジョン・コンスタブル夫人》1816年、油彩/カンヴァス、30.5×25.1cm、
    テート美術館蔵 ©Tate

chapter.2 2章自然にもとづく絵画制作

1802年からコンスタブルは、太陽の下で自然を描き始めました。 戸外での油彩画制作は、17世紀にイタリアで修業したフランスの画家が訓練の一環として始め、各国に広まった手法です。 これに対してコンスタブルは、「あらゆる創造力がそこから湧き出る源泉」として自然を捉え、その根源的な本質を探るには戸外で描く必要がある、と考えていました。 油彩のスケッチに描き留めたのも、やはり、父の所有するフラットフォードの製粉所の近くや少し離れたデダム周辺の情景でした。こうしたスケッチは、後にアトリエで制作する際の着想源としても活用されます。 1814年から1817年にかけては、さらに急進的な試みとして、展覧会出品用の絵画などの大型作品を、ほぼ完全に戸外で細部まで描こうとしました。 制作活動の充実の背後には、近くの製粉所に画材を置くことを許し、専用のアトリエを村に用意した、父の支援がありました。
19世紀初頭に、自然を前にして油彩画制作を行ったイギリス人画家は、コンスタブルだけではありません。本章では、ターナーをはじめとする同時代の風景画家が戸外で描いた油彩画の数々をあわせて展覧します。

  • デダムの谷

    《デダムの谷》1805-17年、油彩/カンヴァス、52.8×44.8cm、
    栃木県立美術館蔵

  • フラットフォードの製粉所(航行可能な川の情景)

    《フラットフォードの製粉所(航行可能な川の情景)》1816-17年、油彩/カンヴァス、101.6×127.0cm、
    テート美術館蔵 ©Tate

chapter.3 3章ロイヤル・アカデミーでの成功

1816年末に結婚したコンスタブルは、ロンドンでの家庭生活を維持するために、肖像画制作に励みます。とはいえ、風景画を最も重視する姿勢は変わらず、ロイヤル・アカデミー展でさらなる注目を集めようとして、より大判の、幅が約6フィート(約185㎝)あるカンヴァスにサフォークの風景を描き始めました。 この意欲あふれる試みによって、1819年、画家はロイヤル・アカデミーの准会員に選出されます。 評価を得て、例年の展覧会に向けて大型の風景画を制作する一方、家庭に馴染むような小型の絵画も好んで描きました。
夏の間、家族が清浄な空気に触れられるように、コンスタブルはロンドン中心部から数キロ北に位置する高台のハムステッドにも住まいを借りました。 この地の小道や木々、人目につかない一角を描写しながらも、とりわけ強く惹きつけられたのは、視界いっぱいに広がる荒野とダイナミックに変化する空でした。1820年代初頭にコンスタブルは、このハムステッドで、きわめて表現力豊かな雲の油彩習作を無数に手がけています。 同じように空や雲に魅了され、その表現を追求した18世紀以降のイギリスの画家の作品も、ここで紹介します。

  • ザ・グローヴの屋敷、ハムステッド

    《ザ・グローヴの屋敷、ハムステッド》1821-22年頃、油彩/カンヴァス、35.6×30.2cm、
    テート美術館蔵 ©Tate

  • 雲の習作

    《雲の習作》1822年、油彩/厚紙に貼った紙、47.6×57.5cm、
    テート美術館蔵 ©Tate

chapter.4 4章ブライトンとソールズベリー

結核を患う妻の療養のため、コンスタブルは1824年以降、イングランド南岸サセックスの海辺の町ブライトンに何度も足をのばしました。 ブライトンは、摂政皇太子時代のジョージ四世が建てた異国風の私邸で知られるリゾート地で、最初この街が気に入らなかった画家は、ひと気のない長く伸びた浜や、住人が少ない丘陵地帯のひなびた一角を作品の題材に選びました。 しかし、1827年のロイヤル・アカデミー展で発表した大型作品には、荒天の下の波打ち際で、流行りの服を身にまとった観光客と昔ながらの漁師が混在する、ブライトンの賑やかな海辺を描き出しています。
ブライトンが家庭の事情で訪れる場所だったのに対して、画家にとってソールズベリーは、同地の大聖堂に関わる聖職者であるジョン・フィッシャー主教およびその甥のジョン・フィッシャー大執事と親交を育んだ土地でした。 大聖堂に隣接する主教の公邸や大執事の自宅に滞在したコンスタブルは、あたりの川沿いに広がる眺望を描いています。また、1828年に妻が世を去ると、その翌年、この地で大規模な大聖堂の眺めを描くことに没頭し、喪失の悲しみを癒やそうました。

  • チェーン桟橋、ブライトン

    《チェーン桟橋、ブライトン》1826-27年、油彩/カンヴァス、127.0×182.9cm、
    テート美術館蔵 ©Tate

  • ブライトン近郊の風車

    《ブライトン近郊の風車》1824年、油彩/カンヴァス、20.3×25.1cm、
    テート美術館蔵 ©Tate

chapter.5 5章後期のピクチャレスクな風景画と
没後の名声

妻の死からわずか数か月後の1829年2月、画家のもとに、ロイヤル・アカデミーの正会員に選出されたという吉報が届きます。 公的な評価を確立し、批評家らの反応に縛られずに主題と技法を選ぶ自由を得たコンスタブルは、これ以降、過去に描いたサフォークやハムステッドの風景に再び取り組みはじめます。 後期には画中のモティーフを思いのままに配置しなおすなど、想像力を駆使した「ピクチャレスク」な絵画の制作を手がけました。
死後の評価に思いをはせた晩年のコンスタブルは、主要作品の版画からなる『イングランドの風景』の出版計画に注力します。 自身で選んだ代表作の版画化に際しては、濃淡が豊かに表現できるメゾチントを採用し、その解説文のなかで「自然のキアロスクーロ」と呼ぶ効果の重要性を強調しました。 画家によれば、この効果は、風景画に生命を吹きこみ、より大きな表現力をもたらす光と影の力のことを意味します。 1830年代には風景画の歴史と意義についての講義を行い、ロイヤル・アカデミー美術学校で後進の指導にあたるだけでなく、夏季展覧会の選考委員会に2度加わるなど、画壇の重鎮としての役割を果たしました。

  • 虹が立つハムステッド・ヒース

    《虹が立つハムステッド・ヒース》1836年、油彩/カンヴァス、50.8×76.2cm、
    テート美術館蔵 ©Tate

  • ヴァリー・ファーム

    《ヴァリー・ファーム》1835年、油彩/カンヴァス、147.3×125.1cm、
    テート美術館蔵 ©Tate