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2016年12月9日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー⑧最終回<パリスの審判について>

皆さま、こんにちは。
本日は今回のメインビジュアルにもなっている《パリスの審判》について、ご紹介して参ります。今回が最終回です。
※「拝啓 ルノワール先生」を担当している、学芸員の安井裕雄に展覧会についてインタビューを行ったものです。

<パリスの審判について>
梅原は1919年にルノワールの訃報を受けて、弔問のために1年の準備期間を経て、1921年に再び渡仏しています。

そしてその時にルノワールのアトリエで見た作品が、《パリスの審判》no.57(公益財団法人ひろしま美術館)です。パリスの審判の主題を描いた油絵の完成作は2点現存しているのですが、《パリスの審判》no.61はどうやら1908年までに描かれているのですが、ルノワールは描いた後に売却してしまっています。
この作品は、絵の右下にしっかり「Renoir 1908」とサインがあるので、画家の生前に売られたことがわかります。《パリスの審判》no.57の方は、サインが入っておりません。こちらは遺産を整理するときに押印されたと思われる、スタンプの押印があります。年号が入いないうえに、画家の生前に売られていないこともわかっています。この作品は画商が数年預かっていたこともあるのですが、ルノワールが亡くなる前にアトリエに戻っています。

ただ、梅原の「ルノワールの追憶」をみると、ルノワールが亡くなった後に訪れたアトリエには、50号の《パリスの審判》が3点かかっていたと書いてあります。これはどういう事かと言いますと、あくまでも仮説ですが梅原の言うところの《パリスの審判》というのは下絵(デッサン)で大きいものがたくさんあったので、どうもそれが並んでいたのではないかと思われます。《パリスの審判》no.61は1910年頃から1929年頃までの所在は分かっていません。再び所在が分かるのは1927年に撮影されたドイツのタンハウザー画廊のベルリンの店内の写真にこの《パリスの審判》no.61が写っており、その時点では既にドイツにあったとわかります。その後めぐりめぐって、一号館にたどり着きます。とても興味深いですね。
ところで1930年代というのは、この作品が、というわけではないのですが、多くの美術品がナチスによって接収されて売られたり、ひどいものですと焼かれてしまいました。

《パリスの審判》no.61(三菱一号館美術館寄託)は1978年に日本に輸入されました。輸入されたときに本来であれば、画商はすぐに購入者のもとにもっていくのですが、この時は最初に梅原のところに持ち込まれました。すると「しばらくここにおいておきなさい」ということになり、梅原のアトリエにしばらく置かれています。その時に書かれた作品が梅原《パリスの審判》no.62です。梅原が90歳のときに描かれた作品です。
この作品はルノワールの記憶と、直接結びついている作品として大変重要なものです。
チラシ表紙-ブログ用

展示室では額にも注目してください。額の縁以外の部分が赤色に塗りこめてしまっています。なぜこうなったかというと、梅原のアトリエの壁は弁柄色に塗られていました。とても強い色です。弁柄色に塗った理由は、この壁紙に負けるような絵を描いてはいけないという事をとても強く意識していらして、調和をとりつつも力強くあるということを重要なことだと捉えていたようです。絵はこの壁紙にまではみ出してしまうほどに勢いよく描かれています。絵と壁との境界線となる額で調和を保つために、赤を散らしたのでしょう。

ちなみに今回の展覧会では、ある小さな展示室の一角の壁の色を決める際に、弁柄色をイメージしています。梅原さんが死ぬまで手元に置いていた愛玩の小品を集めた空間です。展示室では弁柄色をそのまま使用すると、照明の関係で絵が見づらくなってしまうので、色味は調整してあります。ぜひ展示の際にご注目ください。

―安井さん、展覧会のご説明を有難うございました!

◆「拝啓ルノワール先生 ―梅原龍三郎に息づく師の教え」特設サイトはこちら

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「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー⑧最終回<パリスの審判について>

皆さま、こんにちは。
本日は今回のメインビジュアルにもなっている《パリスの審判》について、ご紹介して参ります。今回が最終回です。
※「拝啓 ルノワール先生」を担当している、学芸員の安井裕雄に展覧会についてインタビューを行ったものです。

<パリスの審判について>
梅原は1919年にルノワールの訃報を受けて、弔問のために1年の準備期間を経て、1921年に再び渡仏しています。

そしてその時にルノワールのアトリエで見た作品が、《パリスの審判》no.57(公益財団法人ひろしま美術館)です。パリスの審判の主題を描いた油絵の完成作は2点現存しているのですが、《パリスの審判》no.61はどうやら1908年までに描かれているのですが、ルノワールは描いた後に売却してしまっています。
この作品は、絵の右下にしっかり「Renoir 1908」とサインがあるので、画家の生前に売られたことがわかります。《パリスの審判》no.57の方は、サインが入っておりません。こちらは遺産を整理するときに押印されたと思われる、スタンプの押印があります。年号が入いないうえに、画家の生前に売られていないこともわかっています。この作品は画商が数年預かっていたこともあるのですが、ルノワールが亡くなる前にアトリエに戻っています。

ただ、梅原の「ルノワールの追憶」をみると、ルノワールが亡くなった後に訪れたアトリエには、50号の《パリスの審判》が3点かかっていたと書いてあります。これはどういう事かと言いますと、あくまでも仮説ですが梅原の言うところの《パリスの審判》というのは下絵(デッサン)で大きいものがたくさんあったので、どうもそれが並んでいたのではないかと思われます。《パリスの審判》no.61は1910年頃から1929年頃までの所在は分かっていません。再び所在が分かるのは1927年に撮影されたドイツのタンハウザー画廊のベルリンの店内の写真にこの《パリスの審判》no.61が写っており、その時点では既にドイツにあったとわかります。その後めぐりめぐって、一号館にたどり着きます。とても興味深いですね。
ところで1930年代というのは、この作品が、というわけではないのですが、多くの美術品がナチスによって接収されて売られたり、ひどいものですと焼かれてしまいました。

《パリスの審判》no.61(三菱一号館美術館寄託)は1978年に日本に輸入されました。輸入されたときに本来であれば、画商はすぐに購入者のもとにもっていくのですが、この時は最初に梅原のところに持ち込まれました。すると「しばらくここにおいておきなさい」ということになり、梅原のアトリエにしばらく置かれています。その時に書かれた作品が梅原《パリスの審判》no.62です。梅原が90歳のときに描かれた作品です。
この作品はルノワールの記憶と、直接結びついている作品として大変重要なものです。
チラシ表紙-ブログ用

展示室では額にも注目してください。額の縁以外の部分が赤色に塗りこめてしまっています。なぜこうなったかというと、梅原のアトリエの壁は弁柄色に塗られていました。とても強い色です。弁柄色に塗った理由は、この壁紙に負けるような絵を描いてはいけないという事をとても強く意識していらして、調和をとりつつも力強くあるということを重要なことだと捉えていたようです。絵はこの壁紙にまではみ出してしまうほどに勢いよく描かれています。絵と壁との境界線となる額で調和を保つために、赤を散らしたのでしょう。

ちなみに今回の展覧会では、ある小さな展示室の一角の壁の色を決める際に、弁柄色をイメージしています。梅原さんが死ぬまで手元に置いていた愛玩の小品を集めた空間です。展示室では弁柄色をそのまま使用すると、照明の関係で絵が見づらくなってしまうので、色味は調整してあります。ぜひ展示の際にご注目ください。

―安井さん、展覧会のご説明を有難うございました!

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