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2016年11月16日

「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー⑥<梅原の東京進出>

皆さま、こんにちは。
本日は、梅原は京都出身であったにも関わらず、なぜ東京でデビューすることになったのかをご説明して参ります。

<梅原の東京進出>
梅原の最初の個展はなぜ東京で行われたのか、という事も興味深い点です。
梅原は1913年に帰国するのですが、彼はなぜか帰国後京都から東京に引っ越してしまいます。親のいる(地盤もあり、画塾に通った)京都ではなくて、東京でデビューしました。留学中に有島生馬とパリで仲良くなって、そのことが梅原の東京進出のきっかけとなりました。
なぜかと言えば有島は、梅原よりも早めに帰国して、1911年3月に雑誌『白樺』でルノワール特集を組んでいます(これはかなり早い段階での特集でした)。さらに、梅原から届く手紙を有島が白樺に掲載していたこともあります。パリのモンマルトルに留学している友人からの手紙として。(初めは無断で掲載していたようですが、)梅原のこと、そして彼の手紙も紹介していた。有島が活動していた白樺派の拠点が東にあったから、東京でデビューすることが出来たのです。
ちなみに梅原という人はとても運のいい人でした。まずは、先に高村との出会いを仲介した人物として名を挙げた、田中喜作との出会いです。フランスに留学する47日間の船旅をともにし、田中の蔵書からルノワールの名前を知り、それをインプットした状態で、7月の20日にパリに到着しています。その田中喜作は先に日本に帰ってしまうのですが、彼は帰国後に京都で美術評論家として新聞などに寄稿するようになります。その中に梅原が出てくるのですが、そうすると地元の人は、梅原というのはあの「悉皆屋(しっかいや)のぼんち」に違いないという事がわかるわけです。皆それぞれ梅原のことを知り、どんな絵を描いているのかと想像したり、期待するわけです。そんな状況ですから梅原がデビューする下地として、プロデュースが自然とできていく訳です。

また東京では、高村光太郎フランスから帰ってきて自分で画廊を開きます。前衛的なゴッホなどの影響を受けた画家、岸田劉生や萬鐵五郎の絵をどんどん展示していきます。その高村の「緑色の太陽」という小論を書くのですが、その中である画家が緑色の太陽を描いても、高村はこれを非難することはない。高村にもそのように見えるかもしれないからである、という趣旨のことを述べています。芸術表現の絶対の自由を求めるという、我らが高橋館長流にいえば「とんがった」ことを言っていますね。
この高村が、ある展覧会に出品された梅原の絵の習作は、その年に文部省が開催した展覧会に出品されたすべての作品を合わせたよりも良い。という意味の事を書いてしまうわけです。すると高村の評論を読んだ人は、梅原、どれだけすごいんだ!となりますよね。
そうすると京都の方では、そのことを新聞に書くわけです。東京の高村が文部省の作品を合わせたものよりも梅原の習作の方が良いと言っている、云々、というような記事を。そうすると京都の人たちの期待はますます高まります。
ところが、1913年に梅原が帰ってきて、あくまでも想像ですが、京都で内々の関係者に見せたところ、内容が前衛的すぎて、古典的な絵画を見慣れていた京都人は、いったいこりゃなんじゃ?!という感じになってしまったのではないでしょうか。あまり評価が高くなかったようです。前評判が良すぎたことの影響もあるかもしれません。

ちなみに梅原も帰国の時には、実は絵画よりも演劇に情熱を傾けていました。当然、絵を学ぶために留学したのでしたから、最初は随分と絵に対して熱心でした。ところが、ルノワール先生に会いに行き、絵を学んだところまでは良かったのですが、留学の後半には演劇・芝居へと興味が移って行ってしまいます。梅原のノートは、もともと絵に関する記述が少なくて困るのですが、途中から演劇だらけになっていて、例えば役者のセリフ、舞台装置、演出に関すること、この時の役は誰だったなど、膨大な量が残されています。本人は、芝居の道に進むつもりだったようです。フランスから、シベリア鉄道で日本に帰ってくる時、頭の中は「芝居、芝居♪」という状態でした。留学させてもらったのだから絵も一応、持って帰る、という程度だったのかもしれませんね。
そんな中、京都に着いてみると、実家の悉皆屋(しっかいや)出入りの職人さんたちが歓迎の提灯行列をしたとか、オープンカーでのパレードがあったと遺族が伝えています。梅原はまだ本格的には作品を発表していません。フランスで学んで帰ってきただけで、このように大歓迎されてしまったので、ここで「自分は絵をやめて演劇をやります。」とはさすがの梅原さんも言い出せなくなったのではないかと。
拝ルノ フォトスポット アップ

なるほど、人とのご縁は不思議なものですね。梅原の演劇に対する想いについても触れられました。
次回は、芸術だけでなく生き方についても迫ります。
どうぞ、お楽しみに!!

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「拝啓 ルノワール先生」担当学芸員インタビュー⑥<梅原の東京進出>

皆さま、こんにちは。
本日は、梅原は京都出身であったにも関わらず、なぜ東京でデビューすることになったのかをご説明して参ります。

<梅原の東京進出>
梅原の最初の個展はなぜ東京で行われたのか、という事も興味深い点です。
梅原は1913年に帰国するのですが、彼はなぜか帰国後京都から東京に引っ越してしまいます。親のいる(地盤もあり、画塾に通った)京都ではなくて、東京でデビューしました。留学中に有島生馬とパリで仲良くなって、そのことが梅原の東京進出のきっかけとなりました。
なぜかと言えば有島は、梅原よりも早めに帰国して、1911年3月に雑誌『白樺』でルノワール特集を組んでいます(これはかなり早い段階での特集でした)。さらに、梅原から届く手紙を有島が白樺に掲載していたこともあります。パリのモンマルトルに留学している友人からの手紙として。(初めは無断で掲載していたようですが、)梅原のこと、そして彼の手紙も紹介していた。有島が活動していた白樺派の拠点が東にあったから、東京でデビューすることが出来たのです。
ちなみに梅原という人はとても運のいい人でした。まずは、先に高村との出会いを仲介した人物として名を挙げた、田中喜作との出会いです。フランスに留学する47日間の船旅をともにし、田中の蔵書からルノワールの名前を知り、それをインプットした状態で、7月の20日にパリに到着しています。その田中喜作は先に日本に帰ってしまうのですが、彼は帰国後に京都で美術評論家として新聞などに寄稿するようになります。その中に梅原が出てくるのですが、そうすると地元の人は、梅原というのはあの「悉皆屋(しっかいや)のぼんち」に違いないという事がわかるわけです。皆それぞれ梅原のことを知り、どんな絵を描いているのかと想像したり、期待するわけです。そんな状況ですから梅原がデビューする下地として、プロデュースが自然とできていく訳です。

また東京では、高村光太郎フランスから帰ってきて自分で画廊を開きます。前衛的なゴッホなどの影響を受けた画家、岸田劉生や萬鐵五郎の絵をどんどん展示していきます。その高村の「緑色の太陽」という小論を書くのですが、その中である画家が緑色の太陽を描いても、高村はこれを非難することはない。高村にもそのように見えるかもしれないからである、という趣旨のことを述べています。芸術表現の絶対の自由を求めるという、我らが高橋館長流にいえば「とんがった」ことを言っていますね。
この高村が、ある展覧会に出品された梅原の絵の習作は、その年に文部省が開催した展覧会に出品されたすべての作品を合わせたよりも良い。という意味の事を書いてしまうわけです。すると高村の評論を読んだ人は、梅原、どれだけすごいんだ!となりますよね。
そうすると京都の方では、そのことを新聞に書くわけです。東京の高村が文部省の作品を合わせたものよりも梅原の習作の方が良いと言っている、云々、というような記事を。そうすると京都の人たちの期待はますます高まります。
ところが、1913年に梅原が帰ってきて、あくまでも想像ですが、京都で内々の関係者に見せたところ、内容が前衛的すぎて、古典的な絵画を見慣れていた京都人は、いったいこりゃなんじゃ?!という感じになってしまったのではないでしょうか。あまり評価が高くなかったようです。前評判が良すぎたことの影響もあるかもしれません。

ちなみに梅原も帰国の時には、実は絵画よりも演劇に情熱を傾けていました。当然、絵を学ぶために留学したのでしたから、最初は随分と絵に対して熱心でした。ところが、ルノワール先生に会いに行き、絵を学んだところまでは良かったのですが、留学の後半には演劇・芝居へと興味が移って行ってしまいます。梅原のノートは、もともと絵に関する記述が少なくて困るのですが、途中から演劇だらけになっていて、例えば役者のセリフ、舞台装置、演出に関すること、この時の役は誰だったなど、膨大な量が残されています。本人は、芝居の道に進むつもりだったようです。フランスから、シベリア鉄道で日本に帰ってくる時、頭の中は「芝居、芝居♪」という状態でした。留学させてもらったのだから絵も一応、持って帰る、という程度だったのかもしれませんね。
そんな中、京都に着いてみると、実家の悉皆屋(しっかいや)出入りの職人さんたちが歓迎の提灯行列をしたとか、オープンカーでのパレードがあったと遺族が伝えています。梅原はまだ本格的には作品を発表していません。フランスで学んで帰ってきただけで、このように大歓迎されてしまったので、ここで「自分は絵をやめて演劇をやります。」とはさすがの梅原さんも言い出せなくなったのではないかと。
拝ルノ フォトスポット アップ

なるほど、人とのご縁は不思議なものですね。梅原の演劇に対する想いについても触れられました。
次回は、芸術だけでなく生き方についても迫ります。
どうぞ、お楽しみに!!

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