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「光」と「言葉」の邂逅 ――歌人と巡る「トワイライト、新版画」展

開催中の「トワイライト、新版画―小林清親から川瀬巴水まで」展。明治の「光線画」から大正・昭和の「新版画」へ、移ろう光の系譜をたどる本展を舞台に、穂村弘さん、小原奈実さん、岡野大嗣さん、岡本真帆さんの4名の歌人をお招きして、吟行会を開催しました。150年前の絵師たちが版に刻んだ光を、現代の歌人はどう受け止めたのか。その過程を皆さまにも少しご紹介します。

左から岡本真帆さん、穂村弘さん、小原奈実さん、岡野大嗣さん。
左から岡本真帆さん、穂村弘さん、小原奈実さん、岡野大嗣さん。

丸の内の黄昏、静かなる創作の火花

寒さがゆるみ始めた3月初旬の休館日、まだ黄昏時には少し早い午後。4人の歌人の皆さんにお集まりいただきました。まずは本展担当学芸員野口玲一の案内で展示室へ向かいます。

連なる小部屋の親密な空気のなかで、ある人は一色ずつの摺りの重なりに目を凝らし、またある人はふと立ち上がってきた言葉を丁寧にノートへ書き留める。作品に対峙する姿勢はそれぞれ異なるものの、おのおのの思考がしんと静まりかえった展示室を満たしていくようです。

たっぷりと一時間半かけて鑑賞したあとは、いよいよ創作の時間。展示室で受け取った膨大な視覚情報を、31音の言葉へと濾過していく濃密な時間が始まりました。1時間後、テーブルの上には、四つの異なる「トワイライト」が並びました。

四人の瞳が切り取った「あわい」の情景

皆さんの作品をここでご紹介しましょう。

たれか手の摺りかさねたる宵闇にとほく近代の雪ふりつづく 小原 奈実

小原奈実さんの吟行の景

川瀬巴水の雪景色《東京十二題 雪に暮るゝ寺島村》から詠んだ歌です。作品を見ながら、月の光や雪の白さが地の紙の色そのものによって表現されているのがとても面白いと思いました。何枚もの版を摺り重ねる物理的な時間と、作品のなかに今も降り続ける近代の時間。その重なりを詠んでみました。

穂村 塗り重ねられた宵闇の質感が、版画の技法そのものと重なり合っていますよね。静止画であるはずの作品に対し、「雪ふりつづく」という動的なまなざしを向けることで、現在と近代を繋いでいるように思います。この歌、このまま展覧会のチラシに載せてもいいんじゃないかと思います。

岡野 摺り重ねる時間、宵闇、近代、そして雪。一つの歌のなかにいくつもの時間のレイヤーが立体的、多層的に重なっています。英語にしたら、時制が入り乱れるような複雑な構成になりそう。それを最初から最後まで一筆書きのように描ききっている点もとても鮮やかです。

岡本 初句の「たれか」という言葉が、黄昏(誰そ彼)の語源を感じさせますね。歴史の大きな流れと個人の小さな営みが一行に凝縮されていて、結びの「雪ふりつづく」という動きが、そこだけ動画のように立ち上がって見えてくるのがとても面白いと思いました。

#Shorts光を摘むひとの時間に首を差し出す仕草 岡野 大嗣

岡野大嗣さんの吟行の景

じつは展覧会を鑑賞している際、一瞬3階の展示室で迷子になってしまったんです。ぐるぐるして同じ作品の前に再び立った時、ふと現代のショート動画(#Shorts)のような感覚に陥りました。清親が描く雷や花火のように、本来は止まるはずのない一瞬の光を「摘み取る」ように定着させた絵師の執念。それを見つめる私たちが、無意識に首を傾け、作品に吸い込まれていく様子を重ね合わせました。

穂村 「首を差し出す」というフレーズが、版画を凝視する姿勢であり、スマホを見入る現代人の仕草でもあるようですね。一瞬を「光を摘む」という美しい動詞で捉えた点に、清親の雷の表現などにも通じる、描き手の時間との戦いが集約されているように思います。

岡本 「光を摘む」という美しい形容と、「首を差し出す」という不穏な仕草の対比がとても鮮やかでハッとしました。ハッシュタグという現代の記号が、まるでインスタグラムのフィルターのようで、作品のなかに感じた「今」を身近に感じさせてくれました。

小原 「首を差し出す」という表現に、ちょっとギロチンのような怖さを感じました。夕闇や雪といった一瞬で移ろう光を紙の上に定着させることは、時間とのせめぎ合いですよね。表現者が時間に立ち向かう際の覚悟が、「首を差し出す」という具体的な仕草から伝わってきます。

光源を瞳の中に写し取る 不可逆だから生きるのが好き 岡本 真帆

岡本真帆さんの吟行の景

小林清親の作品《帝国議事堂炎上之図》のような「火事」の絵に強く惹きつけられました。その強烈な一瞬を、絵師は何度も反芻しながら版に刻んだはず。一度刻んだら元に戻せない版画の不可逆性と、二度と戻らない時間を生きる私たちの生。闇や光を美しいと思い、それを残したい、切り取りたいと願う思いは私のなかにも強くある感情です。

穂村 我々が生きるということは、瞳に光源を写し取る行為なんでしょうね。自然の火や太陽しかなかった時代に、電気という新しい光源が現れた驚きも想起させます。一方で僕の年齢になると、AIの登場など大きな時代の変化の前に、不安になるのも事実。だからこそ、人間が限りある命を「生きる」ことに対する「不可逆だから」という言葉に励まされる。

岡野 歌のなかに出てくる「瞳」を、展示された版画や写真のなかの人々の瞳に重ねて読みました。とくに写真のなかの人々は一見無愛想な表情をしていたように記憶していますが、彼らにも光を瞳に映し、楽しんで生きていた瞬間が確かにあったはず。名もなき人々の、時空を超えた感情も読み取れる一首だと思います。

小原 私はこの「瞳」を、光を捉えた画家のものでもあり、作品に対峙する我々鑑賞者のものでもあるように感じました。浮世絵が衰退していく時代にあって、新時代の風物を取り込み、新境地を開こうとした新版画の背景など、本展を通して感じた時代の不可逆性が下の句に響いているように思います。

ひとさらいのおじさんの手からぼくの手へコンペイトウがきらきら落ちる 穂村 弘

岡野 「ひとさらい」なのに「おじさん」と敬称がついているのが、まるで一つの職業のようで面白いですよね。「月光仮面のおじさんは〜♪」という歌のフレーズのような、かつての大人への距離感を感じます。空の星をコンペイトウに見立てたような版画のイメージとも重なります。また、「手」が近代と現代を繋ぐ通路にもなっているようで、とても楽しく読みました。

岡本 私も「ひとさらい」という怖い存在に「おじさん」と敬称がついた途端、妙な親しみを覚えました。でもかえってそれが不気味さを増長させているような気もして、親密さと不穏さが同居する面白みがあります。「コンペイトウ」というカタカナの選択が、ひらがなや漢字とは違う独特の質感を放っていて、異世界へ連れて行かれるような感覚を覚えました。

小原 私は半分影になって近づいてくる何者かの怪しさを感じました。「人さらい」という言葉の響きには昭和的なニュアンスがあって、明治・大正を描いた今回の版画とはまた異なる時間が、作品の上にさらに一枚重なったような印象を受けました。

版画と短歌のあいだで

講評のあとも穏やかに話は続きました。岡本さんは、版画には写真にはない余白がある、と感じたそう。「何枚もの版が重なり人の手を経ているぶん、見る側に委ねられるものが大きい。版がわずかにずれるところ、そういう『味』が余白を生んでいるのかもしれない」と話してくれました。さらに小原さんは、「短歌でいう『ひとりの顔』が今回の版画には見えやすかった」と語ります。穂村さんからは、短歌の「私性」のルーツがそもそも絵画にあることも飛び出しました。岡野さんは、版画という媒体そのものの面白さも受け取ってくださったようです。

「職業柄、どうしても技術や技法で作品を見がちですが、作品のなかに時間が流れ続けていることを、皆さんが作ってくださった短歌から再認識できて感動しました」と、野口も今回の企画に感激した様子。

展示室の静寂のなか、作品と向き合い、自らの内側に生まれる言葉に耳を澄ませる。それは、自身と深く対話する瞑想のような時間でもあります。展覧会に訪れる皆さんも、ぜひ作品を鑑賞して、ご自身の内に浮かんだ言葉を歌に詠んでみてはいかがでしょうか。

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