館長対談

館長対談 vol.10

ゲスト

城戸真亜子さん
(洋画家・タレント)

言葉にならない気配や違和感に満ちた、ナビ派ワールド

タレント業と平行して洋画家としても活躍する城戸真亜子さん。
シャープでポップな表現のかたわら、
ふとした一瞬に潜む何げない気配を、絵画というもの言わぬ表現で、
わたしたちにそっと語りかけてくれるその作風には、19世紀末に活躍した
ナビ派との共通点がありました。日本人にはあまり馴染みのない
ナビ派の画家たちの魅力が、城戸さんと館長の対話を通して浮かび上がります。

“展覧会の副題の「ささやきと、ざわめき」という文言に、とても惹かれます”
— 城戸さん

高橋今日は、ようこそお出でくださいました。

城戸次回の展覧会がナビ派をテーマにしたものとうかがって、今日は高橋館長とお話しできるのをとても楽しみにしていました。わたしは、あまりナビ派に関しては知識がないのですが、展覧会の副題になっている「ささやきとざわめき」という文言にとても惹かれました。というのも、わたしが絵を描く際のテーマに、似かよったイメージを感じているからなんですが……。

高橋ナビ派は、印象派の画家たちから20年くらい後の世代の画家たちです。そしてその次には、すぐに20世紀を代表する画家であるマティスやピカソが登場します。そんな大きなムーヴメントにはさまれて、美術史からはちょっと抜け落ちてしまった画家たちなんですよね。しかも、色もホワホワしていて、とらえどころがないというのが特徴のひとつだから、言葉にして表現するのが、なかなかに難しい画家たちなんですよ。

城戸わたしもナビ派は、美術史のなかでチラっと聞いただけでした。しかも「ナビ」というのが「預言者」という意味があるとのことで、宗教的なものかしら?と思って、なんとなく通り過ぎてしまいました。

高橋そうそう、みんなそんな感じです。ただ最近になって、ナビ派の絵を見直してみようという動きが世界的に出てきています。オルセー美術館はいま、印象派ではなく、ナビ派を全面的にアピールしているんですよ。2月4日から当館で始まる「オルセーのナビ派展」では、そのオルセーのナビ派コレクションのなかの傑作群がやってきます。

城戸展覧会のプレス資料で、出品されるというポール・セリュジェの《タリスマン》を拝見して、なんて美しい作品なんでしょう!と思いました。この絵が描かれたというポン=タヴェンは訪れたことがないのですが、以前、同じ北フランスのロクロナンやキブロンなどには旅したことがあって、古き時代の文化を内包した空気感を、肌で体験したことがあります。

高橋たしかに、セリュジェのこの作品には、城戸さんの作品と共通するものを感じます。城戸さんも人気(ひとけ)のない風景や水辺の風景をよく描かれますよね。

城戸ええ、わたしも水面への映り込みなど、とても好きでよく描きます。この作品は知らなかったのですが、印刷で見てもとても美しい!と思ったので、ほんとうに早く実物を拝見したいです。

“ナビ派は、色もホワホワしていて、とらえどころがないというのが特徴。
言葉にして表現するのが、難しい画家たちなんです”
— 高橋館長

高橋《タリスマン》のように、ナビ派の作品に共感するところはありますか?

城戸ええ、とても。わたしは、その場に漂っているものや潜んでいる気配、ふとした日常の違和感とか、そういったものを描きたくなるんです。そのものずばりではなく。そんな感覚を彼らにも感じますね。だからこそ、展覧会の副題になっている「ささやきとざわめき」にとても惹かれるのかもしれません。

高橋なるほど。日常に潜む違和感というのは面白い表現ですね。

城戸わたしは絵を描くこと以外の仕事もさせていただいていますが、そうした分野ではあまり意味をなさないこと、つまり、世の中的には無意味なことにとことんこだわって向き合えるのが、絵を描く仕事だと思っています。だから、ふとした日常の一瞬や、ちょっとした違和感を見つけると、気になって仕方がない。そしてそんな違和感を自分のなかで再構成して、色彩や平面として絵にしているのです。

高橋平面という点でもナビ派との共通点がありますね。西洋絵画は、三次元の世界を二次元でいかに表現するかを追究することで発展してきました。そのいちばんの旗振り役がルネサンスの巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチです。レオナルドは、自然を研究して、真似て、それをそのままストレートに二次元に写しかえることこそが、崇高な絵画芸術だと高らかに宣言しました。そしてそんな神のような再現能力を持つ画家は、神にきわめて近い高い地位にあるのだとアピールしたんです。でも一方、ナビ派の画家たちは、二次元は二次元なんだと。二次元は三次元に劣るものではなくて、自分たちは平面という二次元の世界で勝負するべきだと考えたんですね。まったく考え方が違うんです。

城戸新しい提案だったんですね。たしかに改めて絵を拝見すると、革新的なものがさざ波のように潜んでいる気がします。それにとてもパーソナルな表現で、そこも今の時代に通じますよね。アートって、パーソナルであればあるほど、その作り手の脳みそのなかに入っていくようでとても面白いものですもの。日本人にもとても親和性がある気がします。

高橋そうなんですよ。わたしたち日本人が理屈抜きで感じられる美です。ナビ派の画家たちは、日本美術の洗礼も受けていますしね。

城戸日本的な、すべてのものに神が宿るという八百万神的な日本人の思考にもつながるんじゃないでしょうか。たとえば、窓の外の雨上がりの風景を眺めて、植物や空気がささやいているのを感じたり、さっきまでそこに猫がいたというような気配を感じとったり……。霊感があるとかないとかいうのではなく、日本人って、気配を帯びたふんわりした感じの世界で生きている気がします。

高橋ええ、ええ、とてもよくわかります。そう考えると、「ナビ」が「預言者」という意味をもつのも象徴的ですね。日本人の感性に直結するような感覚をもっていたのかもしれません。

城戸そういえば、ブルターニュ地方を訪れたとき、あの北部独特の風土はとても印象的でした。朝もやのたちこめる森の存在や、ケルト由来なのか、妖精の存在が信じられている文化に確かに日本と共通するものがあるのかもしれないと思いましたね。

高橋そうそう、森や庭も室内の風景と並んでナビ派の画家たちがよく描いたモティーフですよ。

城戸庭から森につながっていく、境界線のあるような、ないようなエリアにはとても魅かれます。庭は、「現実(都会や家)」と「幻想(森)」の間にあるその境界のような存在で、そこは、ある特別な気配をまとった場所だと思うんですよね。

高橋ちょうどナビ派が出てきたのは、これまでの西洋的な一神教の世界観が少しずつ崩壊していく時代に重なります。一神教世界のなかで、いままで隠されて閉じ込められてきた世界――たとえば、ケルトの文化などが表に出てこられる時代になってきたんですね。《モナリザ》のように、時間の堆積を塗り込めたような永遠性を保有する作品ではなく、彼らは変わりゆく時間のなかのふとした一瞬を、二次元の世界に切り取ろうとした。もちろん、印象派の画家たちも一瞬をカンヴァスに定着させようとしたんだけれど、気配や違和感といったものにはあまり注目していなかったんじゃないかな。神から離れた時代に、価値観や思考が変わり、創作の動機もぐんと変化していったんですね。

城戸そこにあるものをそのまま写すという表現じゃないからこそ、より実際の作品を観たいという気持ちになります。想像をふくらませて観る楽しさがありますもの。それに色も美しいから、ぜひ実物を観たいし、筆触こそは作家が感じたものが筆に伝わって出てきているものなので、それが展覧会で間近に観られるのは、とてもワクワクします。

高橋そういえば先ほど猫の話が出ましたが、ナビ派の画家たちは猫をたくさん描いています。猫って、存在自体が割り切れない動物で、西洋の歴史のなかでは評価の低い動物だったから、長い間、絵に描かれることはほとんどなかったんです。犬みたいに「右に行け!」と言っても、素直に右に行く動物じゃないでしょ。だから一神教にとっては、異端な生き物だったんですよ。

城戸なるほど、支配できない生き物ですものね。

高橋でも、僕は基本、猫派です。これまでは飼えない状況だったんだけれど、今度、家を引っ越すことになってようやく飼えそうです。楽しみにしているんですよ。ちなみに城戸さんはどちらですか?

城戸やっぱり飼うなら猫ですね。わたしは留守にすることが多くて、なかなか動物は飼えないんですが、老後は猫を飼いたいです(笑)。絵のモティーフにもなってくれそうだし。

高橋それじゃあ、城戸さんの作品に猫が登場し出したら猫をお飼いになったなと、すぐにわかりますね(笑)。

城戸真亜子(きど まあこ)
1961年愛知県名古屋市生まれ。武蔵野美術大学油彩学科卒業。1981年女流画家協会展、1997年VOCA展に入選。画業のほか、エッセー執筆、テレビ出演、講演会など、幅広く活動している。2016年11月には、認知症の義母との介護の日々を綴った『記憶をつなぐラブレター 母と私の介護絵日記』(朝日出版)を出版。