19-20世紀の近代美術の成立を考えるとき、マネが果たした役割は決定的でした。レアリスムを基調に、ベラスケスなど過去の巨匠たちの作品を研究・引用し、さらに日本美術や新しい印象派の技法を援用するなどしてマネが実現した作品世界は、新しい近代の市民社会の現実を鏡のように映しこんだ斬新なものだったのです。マネに続く画家たちは皆、マネ芸術の成果をさまざまな形で受け止めました。モネやルノワールなど、マネより少し若い印象派世代の画家、セザンヌ、ゴーガンといったポスト印象主義の人々、さらにピカソを筆頭に、20世紀のポップ・アートやヌーヴォー・レアリスム、そしてさらにポスト・モダンの作家たちの多くも、マネが開拓した地表なしでは存在しなかったでしょう。
しかし、僅か51歳で逝去したこの画家の回顧展の開催には、常に困難を伴うのが現実です。なぜなら、マネは本来決して多作ではなかった上に、貴重な代表作の多くは欧米の著名美術館の「目玉」となっていて、それらを借り出すことは大変に難しいためです。世界的にみても、1983年にパリとニューヨークで開かれた大規模な没後100年展以降、この画家に関する展覧会は数えるほどしか開かれていませんし、我が国においてもマネに焦点を当てた企画は稀です。
今回、三菱一号館美術館の開館記念展として、この画家を選んだことには大きな意味があります。それはマネこそが近代都市パリの成熟期にあって街を心から愛し、都市生活そのものを滋養として制作した芸術家であり、他方、新しく出発する美術館もまた、あらゆる意味で都市と共に生き、成長していこうとしているからです。
長い準備期間を経て実現された本展「マネとモダン・パリ」は、西欧の重厚な絵画伝統を新しい時代にふさわしい形に変換させた、この類稀な芸術家の代表的作品を編年的に辿る、回顧展の形式をとっています。そして同時期に制作を重ねていた作家たちの作品を併設することで近代の都市文化と芸術の接点を探るという、複眼的な構想をもつ展覧会となっています。

- 1月23日、パリ市中心部のプティ・ゾギュスタン街(現ボナパルト街)に、裕福なブルジョワ家庭の三人兄弟の長男として生まれる。

- 名門コレージュ・ロランに入学。学問よりも美術に惹かれる。

- 海軍学校の受験に失敗し、見習船員として南アメリカへ渡航。
二月革命。第二共和政始まる 
- 画家になることに父母が同意する。

- トマ・クチュールのアトリエに入門。

- 最初のオランダ旅行。
ナポレオン三世が皇帝に即位。第二帝政始まる 
- フィレンツェ、ヴェネツィアなどイタリア旅行。
オスマン男爵によるパリ大改造始まる 
- クチュールのアトリエを去り、ルーヴル美術館で精力的に模写を行う。

- 作品2点がサロンに初入選。
アメリカ南北戦争(~65) 
- 腐食銅版画家協会の設立に参加。
- 《ローラ・ド・ヴァランス》制作、ボードレールの賞賛を得る。

- 「落選者展」に《草上の昼食》を出品、物議をかもす。

- 《オランピア》をサロンで発表する。スペイン旅行。

- パリ万国博覧会の会期中に個展を催す。

- マネの作品を擁護したゾラへの感謝と賞賛の証として《エミール・ゾラ》を画く。

- 普仏戦争。第二帝政の崩壊とともに第三共和政成立
国民軍に入隊しパリ防衛に参加。 
- パリ・コミューンに際し、一時パリから避難する。

- 《すみれの花束をつけたベルト・モリゾ》を描く。

- パリで「第一回印象派展」。実弟ウジェーヌとベルト・モリゾが結婚

- 《ラトゥイユ親父の店にて》など自然主義的な作品を多く描く。

- レジオン・ドヌール賞を授与される。

- 《フォリー・ベルジェールのバー》がサロンに入選。

- 左足切断の後、容態が悪化し4月30日に51歳で死去。
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