三菱一号館美術館公式ブログ「東京駅周辺美術館共通券 1月2日から販売開始!」

三菱一号館美術館 公式ブログ 当館のイベントの様子や出来事をお知らせしていきます。

2015年12月29日

東京駅周辺美術館共通券 1月2日から販売開始!

4館共通券(P.1)4館共通券(P.2)三菱一号館美術館では2016年1月2日から販売開始します。

2015年12月28日

三菱一号館美術館公式Twitterのご紹介
「画鬼・暁斎」展100問ツイート
(河鍋暁斎記念美術館 館長・河鍋楠美さんと当館担当学芸員の感想)

皆様こんにちは。
前回まで3回にわたりまして、過去ツイッター企画のご紹介をしてまいりましたが、
今回は「画鬼・暁斎」展の担当学芸員の野口と、河鍋暁斎記念美術館の河鍋楠美館長から
展覧会を終えての感想を頂戴いたしましたので、ご紹介させていただきます。

【河鍋暁斎記念美術館・河鍋楠美館長コメント】
「三菱一号館美術館の「画鬼暁斎―Kyosai 幕末明治のスター絵師暁斎と弟子コンドル」展を終えて」

暁斎展は昭和56年(1981)以来、35回開催しましたが、本展は、大成功でした。
本展成功の要因は、まず、会場が、東京駅に近く、西洋画の展覧会で実績ある三菱一号館美術館だったこと。
宣伝、目を引くポスターやチラシが大量に貼られ、同時にTV・新聞・雑誌にも数多く取り上げられたこと。
画域の広い暁斎ですが、テーマを絞ったこと。

そのテーマとは、幕末・明治の有名絵師・暁斎と、弟子で近代日本の建築の基礎を築き「建築界の父」と呼ばれた
コンドルとを組み合わせ、コンドル設計の建築を楽しみながら、暁斎とコンドルの日本画を見られたこと。
しかし何より、主催者の熱意です。本展は、西欧人と日本人の稀有な師弟愛に焦点をあてた展覧会で、
この新しい視点に老若男女の皆様が共感していただけたものと、感謝しています。

【三菱一号館美術館・学芸グループ長野口玲一コメント】

まずは同展にお越しいただいた、観客の皆様に御礼申し上げたいと思います。そして河鍋楠美先生、河鍋暁斎記念美術館をはじめとして、貴重な作品をご出品くださり、また展覧会の開催にご尽力いただいた皆様方にも感謝を申し上げたいと思います。この展覧会をこれまでにないユニークなものとできたのは、ひとえに皆様のおかげでございます。
 
近代日本や三菱社にとって大切な建築家であったジョサイア・コンドルの、日本文化研究者としての側面に光を当て、彼が並み居る絵師たちの中から、なぜ河鍋暁斎を選びだしたのか、二人の交流とともに、暁斎とは何者だったのかを示すことを展覧会では目指しました。それには当時の人々の視点に立ってものを考えるような、考古学的とも言える見方が必要です。この展覧会が皆様に受け入れられたとしたら、そのような視点が現代人にとっても興味深いのだと認められたということなのでしょう。どうもありがとうございました。

◆河鍋暁斎記念美術館HPはこちらからご覧いただけます。
◆三菱一号館美術館公式Twitterアカウント@ichigokan_PRはこちらからご覧いただけます。

ちなみに、上野の森美術館で開催中の
「シカゴ ウェストンコレクション 肉筆浮世絵-美の競艶浮世絵師が描いた江戸美人100選」展に暁斎の
《一休禅師地獄太夫図》が展示されております。暁斎ファンのの方はお見逃しなく!!

2015年12月25日

プラド美術館展《眠る幼子イエスを藁の上に横たえる聖母》について

皆様、こんにちは。本日はクリスマスです!
クリスマスは、キリスト教では救世主イエスが産まれたとされている日です。
もっとも近年の研究ではイエスは冬産まれではないとされているようなのですが。

残念ながら、プラド美術館展ではイエスが生まれたことを描く「キリスト降誕」という名前の作品はありません。
一番近いのはおそらくカルロ・マラッティ(1625~1713)の《眠る幼子イエスを藁の上に横たえる聖母》でしょう。
新約聖書に四つある福音書のうちのひとつ『ルカによる福音書』では、母マリアは旅の途上で子どもを産み、
幼子は飼い葉桶に寝かされた、と書かれています。 マラッティの作品に描かれた、慈愛に満ちた母マリアが
幼子イエスを藁の上に寝かせるさまは、福音書の記述を想起させます。

《眠る幼子イエスを藁の上に横たえる聖母》を探しにご来館ください!
ぷらどちらし

2015年12月22日

三菱一号館美術館公式Twitterのご紹介
「画鬼・暁斎」展100問ツイートアーカイブ
(問76~問100/展覧会について③)

皆様こんにちは。
100問ツイートの続きです。暁斎 HPトップ
【問76】河鍋楠美さんは、河鍋暁斎記念美術館の館長でいらっしゃいますね。
【答76】はい。
    暁斎のひ孫にあたる方です。1977年(昭和52年)、ご自宅を改装して河鍋暁斎記念館を開館されました。
    現在では(公財)河鍋暁斎記念美術館になっています。暁斎の画業を広く伝えるべく、
    日々活動されております。詳しくは、河鍋暁斎記念美術館HPをご覧ください。

【問77】河鍋暁斎記念美術館はどこにありますが。
【答77】埼玉県蕨市にあります。私たちには河鍋暁斎記念美術館館長としての印象が強い河鍋さんですが、
    実は現役の眼科医として診療にも携わっていらっしゃいます。

【問78】美術館の館長と眼科医を両立されているのですか!
【答78】はい。以前は病院の一角にギャラリーを併設し、現代の作家を紹介していたそうです。
    河鍋暁斎記念美術館でも暁斎とかかわりがあったり、絵の表現が重なるような作家紹介を
    行う活動もされています。
    暁斎が近年再評価されるようになったのは、河鍋楠美さんの40年にわたる長年の情熱のたまものです。

【問79】「画鬼・暁斎は」コンドルと暁斎が三菱一号館で邂逅する展覧会ですが、
    この度の二人の関係性に焦点をあてた展覧会として、捉えておくべきポイントはありますか。
【答79】コンドルの描いた《鯉之図》と暁斎が描いた、《鯉魚遊泳図》は比べてご覧ください。
    師匠の暁斎が描いた《鯉魚遊泳図》の画面向かって左上、
    身を翻す二匹の鯉をコンドルが抜き出して描いています。

【問80】二つの絵のからどのようなことが解りますか。
【答80】コンドルが記した『Paintings & Studies by Kawanabé Kyôsai』にはぼかしの積み重ねや、鱗の描法など、
    暁斎の《鯉魚遊泳図》がいかにシステマチックで合理的な描法に基づいているかが記載されておりますが、
    その技法がコンドルにも確実に伝わっていたことが解ります。

【問81】コンドルは、日本画の描き手としてはどのような評価だったのでしょうか。
【答81】日本の展覧会で受賞したこともあります。暁斎の技量と比べると見劣りするところもありますが、
    この《鯉之図》はコンドルの作品の中で特に完成度の高い作品です。

【問82】鯉が正面を向いている構図は、暁斎の《鯉魚遊泳図》のみですね。
【答82】正面向きの構図は伊藤若冲の影響ではないかと言われています。動物の顔を正面から描くのは、
    江戸の後半に例がありますが珍しいものです。

【問83】その他に技法で特徴的なものはありますか。
【答83】グラデーションを生かした鯉の描写は円山四条派からの影響が指摘されております。
    暁斎が狩野派だけでなく、京都の画派からも広く学んでいたことを示しています。

【問84】『Paintings & Studies by Kawanabé Kyôsai』とはどのような本ですか。
【答84】暁斎の伝記、詳細な印刷の記録、コンドルの暁斎画コレクションの記録などからなっています。

【問85】日本画は、師匠の技は「見て盗め」という感じで手取り足取り教えるという印象はないのですが、
    実際は違っていたのでしょうか。
【答85】暁斎に関しては例外的だといえます。外国人であったコンドルとの関係もあるかと思いますが、
    自分の技術を大変熱心に伝えていたようです。コンドルがその内容を詳細に記録しているので、
    資料としても大変役に立ちます。

【問86】暁斎の技法が解るのはコンドルのおかげという事でしょうか。
【答86】はい、そのようにも言えると思います。コンドルは大変なメモ魔だったらしく、
    とても詳細に記録しています。技法についてもコンドルの視点で考察を加えていたり、大変興味深いです。

【問87】他にコンドルが今に伝えたことはありますか。
【答87】『Paintings & Studies by Kawanabé Kyôsai』の口絵に暁斎筆の《大和美人図屏風》
    が色摺木版画で印刷されています。これは《大和美人図屏風》を写真で撮影し、
    それをコロタイプで版下に転写し123版摺りで制作した、当時最高の技術で造られたものです。

【問88】《大和美人図屏風》の複製画ということでしょうか。
【答88】そうです。当時は現在のようなオフセット印刷はありませんので、この複製は木版で作られていました。
    当時の技術においては最高のものです。

【問89】なるほど、ちなみに、「コロタイプ」とはどんなものですか。
【答89】写真のネガを、感光剤をを含むゼラチンを塗ってガラス板に転写し、版とする方法です。

【問90】《大和美人図屏風》は今回の「画鬼・暁斎」展のチラシやポスターにも使われていましたね。
    豪華な印象の絵ですが、コンドルにとっても大事な作品だったのですか。
【答90】もちろんです。《大和美人図屏風》は暁斎に弟子入りしたコンドルの絵の上達を喜んだ暁斎が、
    コンドルの目の前で1年ほどかけて制作し、プレゼントした作品ですから。

【問91】《大和美人図屏風》はとても贅沢なものですね。
    目の前で師匠である暁斎の技術のすべてを見ることが出来たのですね。
【答91】その通りです。
    描かれた遊女は暁斎が頻繁に取り上げる、浮世絵美人のルーツである江戸時代前期のスタイルです。
    一方、背後の稲作を描いていた耕作図は狩野派で定番の画題でした。江戸の諸派の技法を併せ持つ、
    きらびやかな作品です。

【問92】弟子コンドルを想う暁斎の様子が想像できますね。
【答92】暁斎は、伝統絵画のエッセンスをこの作品に込めたのですね。右の遊女の衣装にも注目してみてください。

【問93】《大和美人図屏風》には何が描かれているのでしょうか。
【答93】彼女の着物には、太鼓、笙、琵琶といった雅楽に使われる楽器が描かれています。 
    足元のところにあるのが楽器なのか何かわからないのです。下絵には「たて」とあるのですが・・・
    今後の課題です。人物の背景にもご注目下さい。

【問94】背景に描かれているのは、田植えの様子でしょうか。
【答94】これは、【四季耕作図】といって、狩野派で伝統的に描かれた画題です。もともとは中国において、
    為政者に農民のくらしや農作業の苦労を教えるために描かれたのが始まりと言われています。
    中国から日本に伝わりました。1枚の屏風の中にすべての季節が描かれているので、
    田植えから収穫まで、作業の過程が解ります。

【問95】《大和美人図屏風》の下絵はコンドルが暁斎から譲り受けて、資料として残っているそうですが
    「画鬼・暁斎」展では展示されていますか。今回の展覧会では展示されていますか?
【答95】はい、着物の衿の部分をスケッチしたものや、楽器のスケッチが展示されています。
    スケッチまで資料として渡していたことから、コンドルへの信頼が伺えます。
    また当時の日本画の資料としても大変貴重です。

【問96】「画鬼・暁斎」展では、メトロポリタン美術館所蔵作品も公開されていますが、
    どのように米国に渡ったのでしょうか。
【答96】暁斎とコンドルの共通の友人であった、フランシス・ブリンクリーの仲介です。
    彼の仲介で、暁斎の作品は米国の実業家チャールズ・S・スミスの手に渡り、
    現在ではメトロポリタン美術館に所蔵されています。

【問97】メトロポリタン美術館所蔵作品の見どころを教えてください。
【答97】暁斎の最晩年の作品ですが、卓越した筆さばきと大胆な構図にご注目ください。    
    作品の元となった河鍋暁斎記念美術館所蔵の《英国人画帖下絵》と一緒に展示しています。
    動物たちの生き生きとした表情にも注目です。

【問98】《英国人画帖下絵》について教えてください。
【答98】《英国人画帖下絵》は河鍋家に伝えられたもので、ここからそれぞれコンドルとブリンクリーのために
    画帖が制作されました。今回はブリンクリーの水墨の画帖が出品されているのですが、
    コンドルの極彩色の画帖の方は現在行方不明なのです。

【問99】暁斎作品は海外に多いのですか。
【答99】暁斎は国内よりも海外で人気があり、値段も高いので、
    残念なことに重要な作品の多くが海外に流出しているという状況です。
    コンドル旧蔵の《大和美人図屏風》、《恵比寿と大黒図》や《松に鷹、昇る朝日図》などは
    海外から日本へ買い戻された貴重な作例です。

【問100】暁斎作品を観て、バラエティの広さに驚きました。
【答100】《暁斎画談》をみると、彼が学んだのは同時代の狩野派や浮世絵ばかりでなく、それらを遡って吸収し、
     さらに中国の水墨画、大和絵、文人画、京都の諸派と、そのあまりの幅広さに驚かされます。
     暁斎の作風には、江戸と伝統絵画のエキスが凝縮されて詰め込まれているのです。

さて、「画鬼・暁斎」展では展覧会をより深くご理解いただくためツイッター上このような企画を行っておりました。
今後も当館のさまざまな情報に加え、ツイッター上の企画が行われるかもしれませんので、フォローしてみてください。

次回はおまけとして、河鍋楠美さんと担当学芸員の野口からの「画鬼・暁斎」展を実施した感想をご紹介いたします。
お楽しみに!

2015年12月17日

三菱一号館美術館公式Twitterのご紹介
「画鬼・暁斎」展100問ツイートアーカイブ(問51~問75/展覧会について②)

皆様こんにちは。
100問ツイートの続きです。

【問51】「日本美術院」って何でしょう。
【答51】日本画の公募展「院展」を主催しているのが公益財団法人の日本美術院です。
    東京美術学校長の職を退いた岡倉天心が日本美術の発展のため、明治31年7月、同じく東京美術学校を辞職した
    橋本雅邦、横山大観、菱田春草、下村観山らと創設した研究団体です。
    詳しくは、HPをご覧にになってみて下さい。
    ◆HPはこちら

【問52】どの様な点に因縁を感じたのでしょうか。
【答52】最後の絵師として江戸の伝統絵画を担った暁斎のお墓と、それを改革して明治の近代日本画を作り上げた
    日本美術院が、同じ谷中初音町にあることです。実際に行ってみるまで、気が付きませんでした。
    実は、日本美術院には岡倉天心以下歴代の同人が合祀(ごうし)されているのです。

【問53】暁斎とコンドルのお墓は、同じ場所にあるのでしょうか。
【答53】いいえ、コンドルのお墓は東京都文京区・護国寺にあります。

【問54】コンドルの命日はいつでしょうか。
【答54】コンドルの命日は6月21日です。奥さんのくめさんも一緒の立派なお墓です。
    ちなみに今回の「画鬼・暁斎」展では、コンドルの肖像画も展示されています。

【問55】コンドルが設計した三菱一号館でコンドルの肖像画がみられるのですね。
【答55】コンドルの設計した暖炉の上に展示されています。肖像画は当館の所蔵作品ではないので、
    一号館の暖炉の上にコンドルの肖像画が展示されるという機会は、めったにありません。

【問56】暖炉もコンドルが設計したのですか。
【答56】はい。このコンドルの肖像画が展示されている場所にある暖炉は、オリジナルの一号館が解体された際に
    保存していたものです。暖炉の右端の部分が少々かけていますが、それがオリジナルである目印です。

【問57】一号館内にある暖炉はすべて保存されていたものなのでしょうか。
【答57】いいえ。
    コンドルの肖像画が展示されている箇所のみオリジナルで、それ以外の場所にある暖炉は復元されたものです。

【問58】「画鬼・暁斎」展では、鹿鳴館内にあった階段の一部が展示されていますが、
    この階段はどこに保存されていたのでしょうか。
【答58】東京大学の工学部建築学科が所蔵していたものです。

【問59】鹿鳴館の建物自体は残っていないですよね。
【答59】はい。昭和19年に取り壊されてしまいました。

【問60】鹿鳴館は東京のどのあたりに建っていたのでしょうか。
【答60】現在の帝国ホテルの隣、日比谷公園の向かいにありました。

【問61】鹿鳴館と言えば、最近話題のゲームにも登場するとか。
【答61】今話題の『明治東亰恋伽』(通称:めいこい)の主人公のめいちゃんがタイムスリップして
    最初にたどり着くのが鹿鳴館です。
 
【問62】なぜ「めいこい」についてご存じなのでしょうか。
【答62】「めいこい」が、伊勢丹新宿店とコラボ企画を行ったのですが、暁斎と同時代というご縁で、
     イベントの一環として開催されたトークショーに、ブログ「弐代目・青い日記帳」のTakさんと
     その時代の画家についてお話をする機会がありました。

【問63】どの様な方に人気があるのですか。
【答63】「めいこい」は若い女性に大変な人気でした。最近は刀剣ブームもあったり、
    ゲームの影響力はとても大きいのですね。これをきっかけに、美術に興味を持ったり、
    実際に美術館に足を運ぶきっかけとなるとよいですね。

【問64】その鹿鳴館ですが、すでに取り壊されて現存しておりませんので、実物を見ることはできませんが、
    階段の他に、何か当時の様子を知ることが出来るものはあるのでしょうか。
【答64】江戸東京博物館の常設展示に鹿鳴館の模型がありますので、実際どのような姿をしていたか気になる方は、
    足を運んでみてください。時間帯によっては舞踏会の様子を再現している場面をご覧いただけると思います。

【問65】コンドル本人に関しては、肖像画の他に写真の展示ありますが、
    そのなかに和装をしているものもありましたが、なんという作品でしょうか。
【答65】《コンドル夫妻による舞踊 京人形》です。

【問66】映っている人物の説明をお願いします。
【答66】左側に映って京人形に扮している女性は、コンドルの妻くめさんです。
    右側に木槌と鑿をもってしゃがんでいるのがコンドルです。

【問67】コスプレのようですが・・・コンドルは何の恰好をしているのでしょうか。
【答67】これは、左 甚五郎(ひだり じんごろう)と呼ばれるは江戸時代の伝説的な彫刻職人に扮した姿です。

【問68】どのような点が伝説的なのでしょうか。
【答68】左 甚五郎の作品はあまりにリアルな為、彼の彫った作品が命をもって動き出したという
    エピソードがあります。《コンドル夫妻による舞踊 京人形》もこの逸話を下敷きにしています。

【問69】左 甚五郎の作品とされるものはどんなものがありますか。
【答69】左 甚五郎作といわれる作品は全国各地に100ヶ所近くにのぼり、その製作年間は安土桃山時代~江戸時代後期
    まで300年にも及びます。彼については謎が多く、実在していたのかも謎のままです。
    腕利きの職人たちの総称として使われていたという説もあります。

【問70】左 甚五郎の作品とされているものはありますか。
【答70】日光東照宮の「眠り猫」や「三猿(見ざる・云わざる・聞かざる)」も彼の作品とされています。
    ちなみに、暁斎が左 甚五郎の同じ場面を描いた作品もあります。

【問71】今回の「画鬼・暁斎」展では、展示されていますか?
【答71】いいえ。残念ながら今回の展覧会には出品されておりませんが、千葉市立美術館が所蔵しています。
    この4月に展示されていたのですが、また展示される機会があると良いですね。
    写真1枚からも建築や絵画だけでなく、日本文化そのものに造詣が深かったコンドルの一面が垣間見られます。

【問72】そういえば、過去に当館で開催した展覧会でも、
    彫刻に命が宿るという主題の絵があったような気がするのですが。
【答72】バーン=ジョーンズの作品ですね。彫刻家ピグマリオンが自分の創った作品をまるで生きているかのように
    愛するに至り、ウェヌスに祈って救いを求めました。ウェヌスは彼の願いを聞き入れて、彫像に命を吹き込み、
    本物の女性にしました。そしてピグマリオンは彼女と結婚します。

【問73】ちなみに映画「マイ・フェア・レディ」もこの作品と関係がありますか。
【答73】はい。このピグマリオン神話は1912年にイギリスの劇作家、バーナード・ショーによって翻案劇化され、
    それを基に『マイ・フェア・レディ』のタイトルでミュージカルが制作された後、映画化もされました。

【問74】左 甚五郎とピグマリオンの違いついて教えてください。
【答74】自分好みの女性を創りあげるという題材は共通ですが、左 甚五郎については、彼の技術力の高さを表すために
    彫ったものが動き出すというエピソードが用いられ、ピグマリオン神話については作品に対する想いによって、
    命を与えられるという違いが興味深いですね。

【問75】情熱によって生命が与えられるということでしょうか。
【答75】そうですね。二人はいずれも作品に対する並々ならぬ情熱があったと思います。情熱という意味では、
    暁斎の復興も河鍋楠美さんの情熱によって支えられているといっても過言ではありません。

さて、次回は、河鍋楠美館長についての質問からご紹介いたします!
お楽しみに。
ガキ 暁斎 緑縦

2015年12月11日

三菱一号館美術館公式Twitterのご紹介
「画鬼・暁斎」展100問ツイートアーカイブ(問17~問50/展覧会について①)

皆様こんにちは。
100問ツイートの続きをご紹介させていただきます。
以下は、「画鬼・暁斎」展担当学芸員・野口玲一にインタビューを行ったものです。

暁斎チラシレイアウト

【問17】コンドルが三菱一号館のほかに設計した建物を教えてください。
【答17】鹿鳴館、ニコライ堂、旧古河庭園の洋館と洋風庭園などです。また旧岩崎邸庭園もコンドルの設計で、
    これは岩崎彌太郎の長男三菱第3代社長の久彌の本邸として造られました。現在一般公開も行っており、
    ご覧頂くことが可能です。

【問18】「画鬼・暁斎」展の図録に収録されている、ドナルド・キーンさんと河鍋暁斎記念美術館館長の
    河鍋楠美さんの対談について、コンドルに関連する印象的なエピソードはありましたか。
【答18】キーンさんのご自宅で対談を行いましたが、旧古河庭園を見下ろす場所にあったのが印象的でした。
    旧古河庭園の洋館と洋風庭園はコンドルが最晩年に設計したものです。

【問19】ドナルド・キーンさんに対談をお願いするきっかけはどのような理由だったのでしょうか。
【答19】河鍋楠美さんとキーンさんの長年の交友関係により、実現しました。
    お二人の関係は、『古典の愉しみ』という書籍の中でキーンさんが暁斎を取り上げたことが
    きっかけだそうで、キーンさんは暁斎も親しんでいた狂言を習っていらしたそうです。
    対談は「双方向の東西交流」というテーマです。

【問20】対談内容で印象的なやりとりはありましたか。
【答20】キーンさんが、アメリカにおける日本の美術や文化芸術の評価が、
    第二次大戦後劇的に向上したというお話をされたことです。(詳しくは図録をご覧下さい。)

【問21】「画鬼・暁斎」展の図録に、隈研吾さんと河鍋楠美さんの対談も掲載されていますが、
    どのような対談でしたか。(暁斎展図録画像掲載)
【答21】隈さんのコンドルに対する率直な考えを伺う事が出来ました。
    今回の展覧会に新しい方向性を加えたといっても過言ではありません。

【問22】それは具体的にどのようなものでしょうか。
【答22】隈さんはコンドルと暁斎との出会いを、ある種必然的なものであると考えていらっしゃいました。

【問23】なぜ必然と考えるのでしょうか。
【答23】隈さんは、「コンドルは日本の近代建築の立役者でありながら、その一方で英国の産業革命や近代化について
    批判的な視点を持っていたのだ」と。
   「だからこそ暁斎と響き合うものがあったのだ」と考えていらっしゃいます。

【問24】暁斎とコンドルは親子ほどにも齢の差があったのですよね。
【答24】ええ、明治14年(1881年)にコンドルが暁斎に弟子入りしたとき、コンドルは満29歳、
    暁斎が数えで51歳でした。そして、その交流は単なる師弟関係に止まるものではありませんでした。

【問25】コンドルにとって、日本はどのような場所だったと思いますか。
【答25】未だ西欧近代に侵されていない、ユートピアのような存在だったと思います。
    開国したばかりの日本の文化が万博などで紹介され、欧米人にとって日本は憧れの文化でもあったのです。

【問26】コンドルは、日本を西欧近代に侵されていない、ユートピアのような存在と思いつつ、
    実際には日本の近代化に貢献する訳で、それは矛盾しないのでしょうか。
【答26】そうですね。コンドルは近代化に突き進んでいく日本を見て、実際にどう思ったかはわかりませんが、
    そんな中暁斎との関係を深めていったのは象徴的です。
    暁斎はコンドルから見て江戸絵画を体現する絵師であり、彼の想いとシンクロしたのだと思います。

【問27】日本にヨーロッパの近代建築を持ち込んだコンドルは、隈研吾さんの現代的な建築から見ると、
    時代遅れであるように思えるのですが。
【答27】私もそのように捉えていました。
    しかし、隈研吾さんは近代に対して批判的なコンドルの持つ豊かさに対して、
    シンパシーを感じていらっしゃったのです。隈研吾さんは日本の近代建築を相対化した世代で、
    そのルーツをたどるとコンドルまで遡るようなのです。

【問28】周回遅れで追いつく、みたいな感じでしょうか。
【答28】その通りです!

【問29】具体的にはその時代のあり方や価値観に、疑問を投げかけているという事ですか。
【答29】そうですね。隈研吾さんは「建築の近代とはいったいなんだったのか」と、考え始めた世代です。
    そこからポストモダンへつながっていきます。近代の「次」はどの方向に進んでいくべきかと。

【問30】だからこそ、西欧近代主義に流されず、伝統的な様式や素材の温かみを重んじたコンドルに
    共感されているのですね。コンドルが近代日本画のルーツとなる狩野芳崖(かのうほうがい)や、
    橋本雅邦(はしもとがほう)ではなく、暁斎にシンパシーを感じた感覚とも通じるのでしょうか。
【答30】暁斎とコンドルでは親子ほど年の差があったという事ですが、二人にも共通の想いがあったからこそ、
    師弟関係を超えたつながりがあったのかと思うと、国や時代を超えた共感というものが解る気がします。
    そんな視点を与えてくれたのが、今回の隈研吾さんとの対談でした。

【問31】近代日本画のルーツとなる狩野芳崖(かのうほうがい)や橋本雅邦(はしもとがほう)の名前が出ましたが、
    彼らは暁斎と近い年齢だったのでしょうか。
【答31】狩野芳崖は暁斎の3つ上、橋本雅邦は暁斎の4つ下でした。同世代なのにイメージが違いますよね。
    狩野芳崖と暁斎は同じ年に亡くなっています。二人とも、東京美術学校の初代教員候補でした。

【問32】「東京美術学校の初代教員候補だった」ということは、実際には就任しなかったという事ですよね。
【答32】そうです。はじめに狩野芳崖のもとに、フェノロサと岡倉天心から就任の依頼がありましたが、
    狩野芳崖は《悲母観音》を描いているときに体調を崩し、明治21年(1888年)11月に
    亡くなってしまいます。

【問33】狩野芳崖の次の東京美術学校の初代教員候補が暁斎だったのですか。
【答33】はい。続いて暁斎に声がかかりましたが、狩野芳崖の後を追うように翌年4月に暁斎も胃がんのため、
    この世を去りました。東京美術学校が出来る直前のことです。

【問34】結局、東京美術学校の初代教員には誰が就任したのでしょうか。
【答34】橋本雅邦が就任しました。彼が近代日本画を担う横山大観や菱田春草を指導することになります。

【問35】もし暁斎が東京美術学校の教員になっていたら、日本画は現在の状況とは異なっていたと思いますか。
【答35】かなり違ったものになっていたのではないでしょうか。「もしも」がないことは承知しておりますが、
    教えるのが上手だった暁斎が教員に就任していたら・・・と考えてしまいます。

【問36】暁斎は教えることが上手だったようですが、弟子に対してどのように接していたのでしょうか。
【答36】暁斎があまりにも熱心に弟子を指導するので、弟子の上達が早く、暁斎の贋作を作ってお金もうけを
    始めてしまうのに懲りて、弟子をとることを一時やめていたそうです。

【問37】コンドルが暁斎への弟子入りを希望した時はどうだったのですか。
【答37】実はコンドルも一度、弟子入りを断られているのですよ。
    熱心に頼みこんで、暁斎への弟子入りが実現しました。ちなみにそんな暁斎の命日は4月26日なのですが、
    本展覧会を開催するにあたり、報告も兼ねたお墓参りに行ってきました。

【問38】暁斎のお墓はどこにあるのでしょうか。
【答38】東京都台東区・谷中の瑞輪寺(ずいりんじ)にあります。

【問39】暁斎の墓石の形が変わっていると伺ったのですが。
【答39】蛙の形をしています。

【問40】よく見かける立方体(四角い形)ではなく、蛙の形をしているということですか。
【答40】はい、うずくまった姿勢の蛙の形をしています。

【問41】暁斎の墓石が蛙の形なのは、理由があるのでしょうか。
【答41】暁斎が3歳の時に初めて写生したのが蛙なのだそうで、蛙に思い入れがあったのだと思います。

【問42】「画鬼・暁斎」展にも蛙が描かれた作品がたくさんありますね。おすすめの作品はありますか。
【答42】《美人観蛙戯図》(びじんかんあぎず)です。当館HPなど、広報用としても使用されているので、
    目にされている方も多くいらっしゃると思います。

【問43】《美人観蛙戯図》(びじんかんあぎず)の注目ポイントはありますか。
【答43】描かれている女性は、人前でなく動物といることで、どこか寛いだ物思う表情を見せており、
    絵を観る者に彼女の内面をのぞき見したような気持ちにさせる絵です。

【問44】《美人観蛙戯図》(びじんかんあぎず)の蛙たちは、何をしているのでしょうか。
【答44】この作品は、《鳥獣戯画》を彷彿とさせます。蛙が相撲を取っている場面が描かれており、
    その様子を女性が眺めています。おんぶしたり、石灯籠に隠れたり、蛙たちの生き生きとした姿や
    表情にもご注目ください。《美人観蛙戯図》(びじんかんあぎず)のとなりに並んだ作品もおすすめです。

【問45】それはなんという作品ですか。
【答45】《横たわる美人に猫図》という作品です。横たわった女性が、頬杖して猫を眺めています。
    この作品の御簾(みす)と猫の組み合わせは、紫式部の『源氏物語』に登場する「女三の宮」
    を連想させます。

【問46】先ほどの《美人観蛙戯図》(びじんかんあぎず)と似ていますね。
【答46】二つの作品はほぼ同じサイズであり、画面の右寄りに垂直線を置き、画面左上には、
    上から植物がさしかかる構図が似通っています。

【問47】構図の他に似ている点はありますか。
【答47】『鳥獣戯画』『源氏物語』という古典を下敷きにした構想や、二人の女性のしどけない姿の匂わせる
    エロティシズムという点も共通しています。遊女と動物の組み合わせも共通しており、これらは組、
    或いはシリーズの作品と言えるかもしれません。

【問48】その他に、この二つの作品について注目ポイントはありますか。
【答48】個性的な顔貌表現と、動物との交流から引き出される内省的な表情の描写は、
    暁斎が描く美人の中でも突出しており、近代的美人画を先取りしたような作例であることも興味深い点です。

【問49】蛙が描かれている他の作品を教えてください。
【答49】《鳥獣戯画 動物行列》にも他の動物と共に蛙が登場しています。
    さらに、蛙ばかりを描いている作品も本展覧会に登場しているのですが、
    そちらは会場で探してみてください。ユーモラスな錦絵の作品です。

【問50】暁斎の蛙について気になった方へ、他の情報はありますか。
【答50】暁斎とつながりの深い蛙にちなんで、河鍋暁斎記念美術館では「かえる友の会」を主催されています。
    蛙好きの方はチェックしてみてください。
    ◆かえる友の会はこちら

【担当学芸コメント】
暁斎の蛙の墓石のお墓がある瑞輪寺(ずいりんじ)ですが、ちょうどお寺の門を出た先に「日本美術院」があり、
何かの因縁を感じてしまいました。

さて、何の因縁を感じたのでしょうか。次回に続きます。

2015年12月10日

三菱一号館美術館公式Twitterのご紹介
「画鬼・暁斎」展100問ツイートアーカイブ(問1~問16/建物編)

皆様こんにちは。
当館では現在「プラド美術館展 ―スペイン宮廷 美への情熱」を開催中です。

本日は、当館の公式ツイッターアカウント@ichigokan_PRのご紹介です。

「画鬼・暁斎」展の期間中の8月25日~9月4日に建物や、展覧会に関する内容を
一問一答形式で皆様にお届けいたしました。この企画の内容をまとめて読みたい
とのお声を頂戴しましたので、本ブログでご紹介して参ります。

また、今回ブログでの紹介にあたりまして、河鍋暁斎記念美術館の河鍋楠美館長から、
展覧会を終えての感想を頂戴いたしました。
以下、投稿内容のご紹介です。

【「画鬼・暁斎」展100問ツイートアーカイブ(問1~問16/建物編)】
まずは三菱一号館美術館の建物に関する一問一答からスタートです。
20151210

【問1】赤煉瓦(レンガ)の建物はいつ建てられたのでしょうか。
【答1】三菱一号館は1894年(明治27年)に三菱が東京・丸の内に建設した初めてのオフィスビルです。
    老朽化のために1968年(昭和43年)に解体され、2009年に復元、2010年4月に三菱一号館美術館として
    開館しました。

【問2】三菱一号館の設計者は誰でしょうか。
【答2】英国人建築家、ジョサイア・コンドルです。お雇い外国人として日本政府に招聘され来日した人物です。
    その業績から「日本近代建築の父」とも呼ばれています。

【問3】ジョサイア・コンドルはいつ来日したのでしょうか。
【答3】1877年、コンドルが24歳の時に来日しました。三菱一号館は彼が42歳の時に設計しています。

―「画鬼・暁斎」展は、暁斎の日本画の弟子であったコンドルが設計した建物に暁斎の作品が展示されていることも
 みどころの一つです。そこで、「三菱一号館」について、よくある質問を紹介いたします。

【問4】赤煉瓦(レンガ)の外観が印象的ですが、煉瓦(レンガ)は全部でいくつ使用されているのでしょうか。
【答4】構造煉瓦210万個、化粧煉瓦20万個の計230万個を使用しています。

【問5】そんなにたくさんの煉瓦はどこでどのようにして作られたのでしょうか。
【答5】中国の長興の煉瓦工場において、一つ一つ型枠に詰めて圧力を加えるという明治の建設時に近い製造方法
   (プレス成型)で造られました。当時の煉瓦の滑らかでしっとりとした質感や色も再現しています。

【問6】積み方にもこだわりや特徴があるのでしょうか。
【答6】三菱一号館は、イギリス積で造られています。日本では明治初期まではフランス積み構造が多く用いられて
    いましたが、(富岡製糸所など)明治20年以降は一号館と同じイギリス積みが主流となりました。
    イギリス積みの方が合理的で建物として丈夫であるとされています。

【問7】煉瓦積には何人くらいの職人がかかわったのでしょうか。
【答7】煉瓦組積造は積み直しや修正がきかないため、技量が必要です。
    そのため、北海道と東京での選抜技量試験をパ スした腕よりの煉瓦職人約100名に集まって頂きました。
    とくに外壁の煉瓦積みには高い技術が要求されました。

【問8】館内の中央階段も印象的ですが、見どころはありますか。
【答8】よくみると、手摺石に他と異なる色の石が混ざっていますが、これは明治時代に使用されていた部材を
    再利用したものです。設置場所も当時と同じ位置に取り付けています。

【問9】石自体も、当時と同じものなのでしょうか。
【問9】本来使用されていた石は伊豆青石ですが、現在採掘されていないため、復元部材には青石と同種(凝灰石)
    で見た目の近い雲石(中国)を使用しています。

【問10】屋根にも特徴はありますか。
【答10】屋根は、スレートと呼ばれる薄い石でできた屋根瓦を使用しています。明治時代には国産の天然スレート
    (宮城県雄勝産)を使用していましたが、現在は非常に生産量が限られており、復元部材には、スペイン産
    天然スレートを採用しました。

【問11】加工方法にも特徴はありますか。
【答11】スレートは切断時にエッジが明治の建設時と同様に柔らかな表情となるよう、
    機械カットではなく押し切りによる手作業で行っています。

【問12】三菱一号館美術館と言えば、Café1894も話題のスポットですが、明治期には、あの空間はどのように
     使用されていたのでしょうか。
【答12】銀行営業室として使用されていました。当時使用されていた銀行カウンターまで復元しているので、
    その様子をうかがうことが出来ます。

【問13】Café1894の天井はとても高いですが、何メートルあるのでしょうか。
【答13】天井高8メートルです。

【問14】Café1894の照明も印象的ですね。
【答14】明治の竣工時はまだ電気が通っていなかったので、ガス灯を使用していました。
    当時の状態を復元するために、ガスの量を調整するために使用していたコックまで再現しています。
    Café1894をご利用になった際にご確認下さい。

【問15】Café1894のガラスを通して外を見ると、ゆらゆらしているような気がするのですが。
【答15】Café1894のガラスは明治時代にヨーロッパから輸入された手吹きガラスが使われています。
    復元に当たっては、旧・新丸ビル(昭和27年竣工~平成16年解体)のガラスを再利用しました。
    戦後の機械製法初期のもので多少の歪みがあるので、外の景色にゆらぎが発生しているのです。

【問16】その他、Café1894の店内でトリビアがあったら教えてください。
【答16】ボックスシートの後ろ側に、“かまぼこ”のようなくぼみがありますが、このくぼみは銀行営業室として
    使われていた当時には、金庫があった場所でした。その名残で、くぼんでいるのです。

次回は、「画鬼・暁斎」展担当学芸員・野口玲一にインタビューを行った内容をご紹介して参ります。
お楽しみになさってください。

続く。